いつ人生の目的を考えますか

今日は「人生の目的を問う偉人の言葉」をあるウェブサイトからご紹介いたします。最初はアップル・コンピューターの設立者スティーブ・ジョブズの言葉です。

毎朝、人生の目的を確認する

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」

彼は17歳でこの質問に出会ってからずっと、毎朝鏡の中の自分に問いかけていたと書いてありました。毎朝、自分は正しく歩んでいるか確認していたということですね。

続いて、経営学者ピーター・ドラッカーの言葉

「何をもって憶えられたいかね?」

私が13歳のとき、宗教の先生が「何をもって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。すると「答えられると思って聞いたわけではない。でも50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」といった。私は、いつもこの問いを自らに問いかけている。これは自己刷新を促す問いである。自分自身を若干違う人間として、しかし、なりうる人間としてみるよう仕向けてくれる問いである。運のよい人は、若いころから誰かにそう問いかけられ、一生を通じて自らに問い続けてゆくことになる。

あなたは自分の人生で何を成し遂げたいと思っていますか。そういうことではないかと思います。今日、私が問いかけたいのは、あなたはいつそのことを考えますか、ということです。

もう一つ、著書「7つの習慣-成功には原則があった!」で有名なスティーブン・R・コヴィーの言葉

「あなたの葬式で集まってくれた人に、何と言って欲しい? あなたの人生について、どう述べて欲しい?」

想像して欲しい。
あなたは今、葬儀会場にいる。
飾ってある写真はあなたのもの。

これはあなたの葬式なのだ。

葬式では、4人の人が弔辞を述べる。
1人は家族。
1人は友人。
1人は仕事の人。
1人はコミュニティー(自治会やサークル)の人。

ここで深く考えてみて欲しい。
集まってくれた人に、何と言って欲しい?
あなたの人生について、どう述べて欲しい?

どんな人格に見られたかったのか。
どんな貢献や業績を覚えていて欲しいのか。
残された人に、どんな影響を及ぼしたかったのか。

第二の習慣は、すべての行動を測る尺度を持つこと。
人生の最後を思い描き、それを念頭に一日を始める。
すべての行動が、人生の最終目的に辿り着くようにする。

人生に目的を持つのだ。

人々は、日々の生活の忙しさに追われ、やっていることそのものに意味があるかどうかを考えない。
非常に忙しい毎日を送りながら、実は自分の最終目的とは何ら関係がないことばかりしていた、という可能性があるのだ。

自分自身にとって、何が本当に大切かを知るのだ。

旅行に行く前には目的地を決めるだろう。
食事をするなら献立を決めるだろう。
針に糸を通す前に、デザインはできているのだ。
(サイトからの引用は以上です。)

人生の目的は身近にある

人生の目的は単なる自己満足ではなく、神様の中にあるものだと私は思います。それは私たちの良心で判断できるものであり、正しく生きることと深い関係があると先週も書きました。でも、忙しい毎日の中で流されてはいるものの、自分で主体的に歩んではいないということも大いにあり得るのではないでしょうか。

毎日10分、神様に思いを向ける習慣

日常の仕事が始まる前に、毎日時間を決めて、神様に思いを向けて祈り、聖書を読む。そして人生の方向性を確認する。その10分間が人生の意義を大きく変えると私は実感しています。今日も聖書の続きを読んで神様に思いを向けてみてください。このブログがそんな時間になればとても嬉しいと思います。

新約聖書 使徒の働き 4章13~22節

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。

しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」

そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。

神様を中心とした生活は宗教的な権威でも学問でもない

ユダヤ教の大祭司の一族はペテロとヨハネが無学な普通の人であるのを知って、その大胆さに驚いたとあります。神様を中心とした生活をすることは、宗教的な権威でも学問でもないということが良く分かります。

宗教に従うことと神様に従うこと

最終的にユダヤ教の大祭司の一族は、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じたとあります。それはユダヤ教という宗教の決議だと思います。ところが、ペテロとヨハネは神様に聞き従うことと、宗教に聞き従うことと、どちらが神様の前に正しいことなのか判断してくださいと言いました。

宗教ではなく、神様を中心にして生きる

もちろん、宗教の全てが間違いだということでもないと私は思います。でも、大切なことは神様を中心とした生活をすることだということが分かると思います。そのために宗教が役に立つなら、それも良いと思います。しかし、害になることもあり得ると私は思います。だから、宗教ではなく、神様の思い、神様の願いを中心とした生活をしていただきたい。そこに全ての問題の解決、人生の目的があると思います。

それは体験に基づくものである

また、彼らは「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」と言いました。それは体験であって、単なる人から聞いた教えや学問や説明でもないということだと思います。