人生の目的を取り戻す

「人生の目的」について考える

杉浦省三さんという方のウェブサイトに「人生の目的」と題する文章が掲載されています。この方は大学の先生のようですが、学生に「人生の目的」について考えさせる授業をされているようです。冒頭にはこのように記されています。

入学直後、これからの大学生活を有意義なものとするために、自分の人生についてよく考えてもらう。自分は何のために生きているのか?――「そんなこと考えたこともないし、第一考えなくても生きられるだろ」と言う学生が多い。大学1年生の提出するレポートは、おおむね以下の5種類の内容に分けられる。

1.人生の目的は、無くてもよいのではないか。毎日それなりに楽しく過ごすことができればよいのだと思う。2.人生の目的は、今はまだ分からないが、これから考えて見つけていきたい。3.人生の目的は、XXになること(XXは、研究者、教員、事業家など、様々な職業)。4.人生の目的は、幸せになること。5.人生の目的は、人生の目的を探す(見つける)こと。

まず、1と回答する人は、2と回答する人と大差なく、浄土真宗では、世人の大半がこれに該当し、このような人々は、大きな苦難・試練など、人生の危機に陥ったとき、「何のために生きているのか」の答えが分からず、自殺に追い込まれやすい、としている。3は、目標にすぎない。しかし、人生の「目的」は、これらとは全く違う最終的なものである。

そう考えると、4の「幸せになる」という回答は、まさに的を得ているように見える。しかし、これは多分、つかむことの出来ない幻の目的だろう。幸せ(の高揚感)は、やっと捕まえても、やがてそれが当たり前となり、さらに上の幸せが欲しくなるからだ。最後の5は言葉の綾だろう。(つまり、答えになっていないということでしょう。)

それでは、この方は「人生の目的」とは何と考えていらっしゃるのか。それは一言でいえば、「次の世代を育てること」ではないか。と書いていらっしゃいます。

私はこの方の意見に概ね共感します

ただ、「幸せ」については、何をもって「幸せ」とするのかという、その人の価値観に左右されますから、たとえ他人が見て不幸と思えるような人生であったとしても、本人は幸せだと言うなら、「幸せ」は人生の目的と言えるのではないでしょうか。いや、人生の目的を果たしたので幸せだと言う事ができるのかもしれません。

神様について

この方は神様について全く触れていませんが、私たちの目的は私たちを創造した神様の中にしか見出すことはできないと私は思います。この方は「次の世代を育てること」と言っておられますが、それも私たちに対する神様の思い、願い、計画の中に含まれていると私は思いますので、間違いではないと思います。しかし、神様を意識することで、私たちは人生の目的をより明確に、そして子供でも理解することができるようになると思います。

人生の目的とは

神様は私たちを何のためにお造りになられたのかと考えることが大切だと思います。私は良い行いをするために、神様の栄光を表すために造られたのだと思います。私たちは神様の子供らしく、それにふさわしい生活をすることが大切でしょう。そこに人間としての尊厳と幸せがあると思います。それは何かの宗教を信仰することではありません。人間として当然の生き方だと私は思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様の思いに心を向けてみましょう。

新約聖書 ルカの福音書23章13~25節

ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」

バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。

そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。

不正な裁判

全く公正とは言えない裁判によって、イエスの十字架刑が決まったことが分かります。しかし、それは神様の敗北ではなく、これが神様の計画であったのだと私は思います。全く不正としか思えない出来事でも、神様の許しなしには何一つ起こらないと思います。むしろ、このイエスの犠牲によって、人類は神様の前に受け入れられるようになったことを思います。

人生の目的

人となった神様であるイエスは、神様から離れて、つまり人生の目的を見失っていた私たちがもう一度目的に立ち返ることができるように、十字架について死んでくださいました。それはキリスト教の話ではありません。全ての人が神様を中心とした生活をするためだと思います。