正しいと確信する事が受け入れられない時

神様は私に何を望んでいるのか

神様を中心とした生活の一つの指針は好き嫌いではなく、善悪を判断の基準とすることだと書きました。その場合の善悪というのは、単に自分が正しいと思うということ以上に、神様から見た場合に、何が正しいのかという視点が大切だと思います。ただ、正しさと言っても人間中心の正しさであれば、それぞれの正しさ、それぞれの言い分というものが必ず出てきてしまうと思います。ですから、大切なことは神様が私に何を望んでおられるのかということです。その見極めは簡単ではないと思いますが、まず神様の願いを第一にするんだと自分の心を定めることから始まると思います。

お祈りの力とは

それでは、どうやってそれが単なる自分の善悪ではなく、神様の願いだと見極めることができるでしょうか。私は「天の神様。どうか私の願いではなく、私に対する神様の願いを教えてください。」と言葉にして祈ると良いと思います。それは理屈で説明できませんが、実際に祈る前までは、これは間違いなく神様が私に願っていることだろうと思っていたことでも、念のために祈ってみようと、神様に心を向けて、目を閉じて、ここに共にいてくださる神様を感じながら、言葉にして祈ってみると、あれ?違うかもしれないと思えてくるという経験を何度もしたことがあります。それは確かに自分の思いから出たものではなく、神様が私の思いに働きかけてくださっているんだと思います。どうぞこの祈りの効果を体験してください。

聖書は大変参考になります

もう一つは聖書です。聖書には私に対する個人的な神様の願いが直接書かれてはいませんが、過去の歴史において、神様がどのように人類に介入してくださったのかということが書かれているので、それを読むと、神様がどういうお方であるのか、またどのような計画や願いを持っておられるお方なのかということが、ある程度は分かりますので、その神様の自分に対する願いは何かを判断するのにとても役立つと思います。

実践者として生きる

そして、実際に行動することだと思います。私たちは初めから全て分かっている訳ではありません。いや、最後まで全て分かる訳でもないでしょう。そういう謙虚さを持つことは、むしろ大切だと思います。だから、こうかなと思うところから実践することだと思います。いつまでも考えているだけでは神様の願いは分からないと思います。祈りつつ、聖書を読みつつ、実践者として生きる。そのような神様を中心としたライフスタイルを築いて行くことが大切ではないでしょうか。そして、自分としては不完全でも、そのような生き方に深い満足感があるんだと思います。

達しているところを基準として進む

同じように神様を中心とした生活の実践者である、パウロという人物がピリピという町の神様を中心とした生活をしようとしている人々に宛てた手紙の中にこのような文章があります。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」

他人の意見にも耳を傾けるが、最後は自分の確信で進む

でも、自分が正しいと思って行動したからと言って、必ずしも他人がそれを正しいと受け入れてはくれないということもあり得ると思います。そんな時はどうしたら良いでしょうか。そんな時は、私はそれが本当に神様の目から見て正しいことなのかどうか、もう一度よく吟味したら良いと思っています。そうです。他人の意見にも耳を傾けるべきだと思います。その上で、それでも正しいという確信が自分にはあるのなら、たとえ人がどう言おうとも自分の確信に基づいて行動するべきでしょう。もちろん、それでも間違っている可能性はあると思います。でも、自分では確信がないのに、他人がそういうからそれに従うというのは良くないと思います。神様は私たちの良心や良識に働きかけ、私に対する神様の願いは他人ではなく、私に分かるようにしてくださると思います。そうでなければ自分の人生ではなくなってしまうのではないでしょうか。

間違っていたと気づいたら、謙虚に認めて、方向を変えれば良い

もちろん、後になって間違っていたと気づくこともあるでしょう。でも、何事にも時というものがあるんだと思います。気付いた時には、謙虚に今までの間違いを認めて、方向を変えればそれで良いと思いますし、それ以外の生き方は私たちにはできないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

自分の権限と責任の範囲を見極めることも大切

ただ、それは自分の権限と責任の範囲内に限ると思います。権限も責任も与えられていないことについて、自分の意見が正しいと主張することはいかがなものでしょうか。もちろん、意見を求められるなら、自分はこう思うと言ってあげる事は良いことだと思いますし、相手のことを思って助言することもあり得ると思います。でも、私たちは自分に与えられている領域をわきまえて、神様にお任せするべきことはお任せすることが大切です。そうすれば、あらゆることに正しく対処することができるようになると思います。最終的に決めるのはその権限と責任が与えられている人です。自分の正しさに捕らわれて、人にも不快な思いをさせ、自分も嫌な気持ちになってしまうということがないようにしましょう。