最低限ではなく、最高を生きる

どうしたら神様に正しい者と認められるのだろう。どれくらい正しい生活をすれば、私は大丈夫という確信を持つことができるのだろう。どれくらい修行すれば、救われるのだろう。こういう考え方が私たちにはしみついているのではないでしょうか。だいたい、私はそれ以外の考え方があるとは思ってもいませんでした。でも、私たちの神様はこれとは違う生き方を私たちに備えてくださったのだと思います。

昨日も「私たちの自信」で書きましたが、たとえ私たちがどのような者であったとしても、神様は私たちを正しいと受け入れてくださる方だと信じるなら、その信仰のゆえに、神様は私たちを正しい者と認めてくださる。これこそ福音、つまり良い知らせだと思います。言い換えれば、私たちは神様に正しい者と認められるために、何もすることはない。何もできることはないと言った方が良いのかもしれません。それは、救いはすべて神様が備えてくださったので、私たちは「神様、ありがとうございます。」と言って、神様を信じたら、その信仰を神様は正しいと認めてくださるということだと私は思います。

ですから、私たちはもう、「最低限、どれくらいやればいいんだろう」という生き方ではなく、「できることを最高にやろう」と生きることができるようになったんだと私は思っています。何をするにしても、最低どのくらいやればいいんだろうという生き方は疲れますよね。あとどのくらい、あとどのくらい、これでは最低限のレベルをクリアした段階で、だいたいもう力尽きます。もうこれくらいでいいでしょうという感じですね。成長も、進歩もそこまでではないでしょうか。でも、最高を生きるというのは、これでいいということはない世界ですから、どこまでも成長や進歩そのものを楽しむという生き方ですから、ますます力が湧いて来るのではないでしょうか。私の目標はあくまでも完全を目指すことです。でも完全な人なんていない訳ですから、それはどこまでも最高を極め続けるという生き方だと思います。それが神様が私たちに備えてくださった生き方だと私は思っています。

新約聖書にも収められていますが、パウロという人が書いた手紙の中に、このような言葉があります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、・・・・・それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」

パウロという人も、そんな風に生きていたのかなと思います。