キリスト教は間違っているのか

世界紛争の原因は宗教なのか

宗教は世界紛争の原因になると言われ、特に一神教のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は排他的で問題だと言われることがあります。本当なのでしょうか。私は宗教を理由にしてはいますが、本当の原因は人種差別ではないかと疑っています。

キリスト教の牧師がキリスト教の立場から書いている「信仰的断片」という記事を読みました。その内容には共感するところがありましたのでご紹介したいと思います。ところどころ抜粋いたしますので、興味のある方は全文をお読みください。

一神教は危険なのか

たしかに一神教は唯一の神を信じ、その神への忠実を誓うところから、ややもすれば他宗教、他の立場に対して否定的になる傾向を持ちやすい。・・・しかし「一神教は戦争、多神教は平和」というような議論の仕方はあまりに短絡的であり、別の事実があった(たとえば浄土真宗と一向一揆)ことを見失わせる。・・・

旧新約聖書は膨大なものであり、あらかじめ結論を決めてそれに合致するものを集めようとすればいくらでも見つかるであろう。「聖書は敵を滅ぼせと言っている」という結論を取り出すことも、反対に「敵を愛せよと説いている」という結論を取り出すこともできる。

キリスト教は危険なのか

キリスト教の名前がつけば何でも良く、反対にキリスト教でなければすべて間違っている、というのは偏狭な態度であり、私はそのような立場を取らない。かえってキリスト教の中に多くのイエス・キリストに対する背反があり、キリスト教以外にイエス・キリストの精神と共通するものがある。・・・

キリスト教は教会の自己保存のために存在するのではない。イエスがそのために生き、そのために死に、そのために復活された「神の国」の実現のために、換言すれば「愛と正義と平和」の実現のために存在する。そのためには自分を批判的に見つめ、自分に託された使命を自覚し、キリスト教以外のさまざまな人々と共に手を携えることが大切である。(サイトからの抜粋は以上です。)

歴史のキリスト教とイエスのキリスト教?

キリスト教だから必ずしも正しいとは言えない。キリスト教はイエスが教えた正しいキリスト教を目指すべきだという内容ではないかと思いますが、最後に「キリスト教以外の・・・」とも言っているので、キリスト教という枠組みを超えてということも考えていらっしゃるのかもしれません。

神様を中心にして生きる

もちろん私はキリスト教が神様を中心にした正しい宗教を目指すことは良い事だと思います。でも、イエスはキリスト教という宗教を始めたのではなく、神様を中心として生きる「神の国」を教えたのだと思っています。キリスト教や宗教はそれ自体が目的となってしまいやすいので、特定の宗教を信仰する方はそのことに注意をして欲しいと願っています。この方はそのことを指摘されているのではないかと感じました。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。大切なことは宗教ではなく、神様を中心にして生きることだと思います。

新約聖書 使徒の働き 11章1~18節

さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。

そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。

その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』と言う声を聞きました。しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。

すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。

すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。そして御霊(みたま)は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。

そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。

そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。

こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。

人種差別が取り除かれる

割礼を受けた人たち(ユダヤ人)は、異邦人(ユダヤ人ではない人たち)が神のみことばを受け入れたということよりも、ペテロたちが異邦人と食事をしたことを非難しました。何ということでしょうか。それは人種差別以外の何物でもないと思います。

宗教の問題、人間の問題、それが罪

本来、神様がイスラエルを選んだのは、イスラエルを通して、全人類に神様を中心として生きることを示すためだったと思います。ところが、人間はそれをユダヤ教という宗教にし、自分だけが清く、他民族は汚れているという人種差別の理由にしてしまったのだと思います。これが宗教の問題点ではないでしょうか。

神様を中心にすれば見えて来る

しかし、神様を中心にして生きるということが分かった時、ペテロの頭の中からも人種差別がなくなり、それを聞いたユダヤ人たちもそれは間違っていたということが分かったということではないでしょうか。人種差別は正しいことではありませんし、神様の願いでもないと思います。人間は皆自分を中心にする傾向がありますが、神様を中心にするなら、何が正しいことか見えて来ると思います。だから神様を中心にしましょう。