日本人の驚くべき回復力

日本人と日本文化の優れた特質について、「日本と日本人の文化」というサイトから紹介し、私のコメントを加えさせていただいております。今日は「驚くべき回復力」という記事をご紹介いたします。

驚くべき回復力

ヨーロッパでは、(東日本大震災に際して、)日本の「回復力」に注目した記事が多く見られました。

2009年、イタリア中部の町・ラクイラで、マグニチュード6.3の大地震が発生しました。そして、町の復興はいまだ実現していません。大地震で破壊された町は、廃墟となったまま半ば放置された状態です。

ところが、日本では、いち早く様々なものが復旧に向かいました。

震災で被害を受けた高速道路870kmのうち、813kmが、震災日から僅か6日で復旧したのです。

日本人は古くから、「」に等しい状態から何度も立ち直ってきました

1860年代の日本は、まだ鎖国状態でしたが、世界からの圧力により開国し、それ以降、急ピッチで近代化を図りました。

そして今度は第二次大戦での敗北。日本は何もかも失ったかのように見えました。しかし、そこからも日本は立ち直り、国を完全に立て直すどころか、世界屈指の経済大国にまでなったのです。

今回の被害では、絶望的なまでに壊滅的な被害を受けましたが、それでも人々は立ち上がっています。

諸外国の人々に言わせると、「何故すぐに復旧に取り組めるのか?」と理解に苦しむところでしょう。しかし、私たちはただ、「やらなきゃしょうがない」という気持ちで、やむを得ず立ち上がっているだけなのだと思います。

そういう日本人の迅速な行動力と、その結果としての回復力には、諸外国の人々にとって、目を見張るものがあるようです。(サイトからの引用は以上です。)

それは日本人のDNA?

確かに日本人の回復力は驚異的だと思います。歴史はそれを明らかに示していると思います。そのような日本人の回復力はどこから出てくるのでしょうか。この方は、ただ「やらなきゃしょうがない」という気持ちで、やむを得ず立ち上がっているだけとおっしゃっていますが、私はもっと日本人の本能的なところというか、理屈ではない、もっと深いところに起因しているのではないかと思います。

神様の民としての日本人

壊れてしまったら直す。日本人にとって、それは当たり前のことのように私には感じます。壊れたままにしておくことの方が不自然であり、耐えられないような気もします。そのような日本人の気質なのか、生き方は昨日今日作られたものではなく、太古の昔から刻み込まれて来たものではないかと思います。それは聖書の民であるイスラエル民族にも似た気質であり、古代日本におけるイスラエル系渡来人の影響が大きくあるのではないかと私は思っています。

私たちは神様の民なのだから、神様の民らしく生きる。それが日本人としての尊厳を作っているのではないでしょうか。それでは今日も神様の民としての自覚をしっかりと引き継ぐために、聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 10章44~48節

ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言(いげん)を話し、神を賛美するのを聞いたからである。

そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

そして、イエス・キリストの御名(みな)によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。

「みことば」とは何か

「みことば」とは神様の言葉だとすれば、ペテロの言葉がそのまま神様の言葉ではないので、神様に関する言葉を「みことば」と言っているのか、またはペテロの話を聞きながら、それぞれが神様からの声なき声を聞いた、それを「みことば」と言っているのかもしれません。いずれにしても、ペテロがローマ人であるコルネリオたちにイエスのことを話していると、彼らに神様の霊が下ったとあります。

聖霊の賜物が注がれるとは

割礼を受けている信者とは、ユダヤ人でイエスの弟子たちのグループに所属するようになった人たちという意味だと思いますが、彼らはユダヤ人ではない人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いたとあります。聖霊の賜物とは異言を話し、異言で神を賛美したことを指しているようですが、異言とは外国語という意味とこの世界の言葉ではなく天国の言葉という意味もあるようです。この場合はどちらなのか分かりませんが、いずれにしても普通ではあり得ないことが起こったのでしょう。

ユダヤ人以外にも広がる

それなら、異邦人もバプテスマ(洗礼)を受けて、イエスの弟子たちのグループに所属すべきだということが言われているのだと思います。ここにイエスの十字架と復活によって、神様を中心にして生きる生き方というものがユダヤ人だけのものではないという認識がされて、これから全人類に広がって行くことにつながって行きます。

大切なことは神様を中心とした生き方

しかし、大切なことは神様を中心にして生きるということであって、必ずしも彼らのグループに所属するということではないと私は思います。何かのグループに所属するというのは、信仰の一つの態度であるとは思いますが、絶対条件ではないと私は思います。それぞれが神様を中心とする生き方にあって判断すれば良いのではないでしょうか。大切なことは神様を中心として生きることだと思います。