【日本とイスラエル】沖縄本島・宮古島レポート(4)沖縄の神々

ミントゥングスク

2019年7月27日(土)~8月2日(金)沖縄本島・宮古島へ古代イスラエルの痕跡を巡る旅に行ってきました。詳しくは10月18日(金)タピ大でも講演させていただきますが、ブログでも少しレポートさせていただきます。 今日は沖縄の神々について赤嶺政信著「歴史のなかの久高島~家・門中と祭祀世界」からご紹介いたします。

三位一体の神

沖縄の神々は来訪神であり、それは三位一体の神であることが分かります。ここにも古代イスラエルとの関連があると考えられます。赤嶺氏の著書からご紹介いたします。

・・・久高島では、朝一番に入れるお茶は居合わせた人数に関係なく三つの茶碗に注ぎ、それを盆に載せて頭上あたりまで掲げるという習慣があるが、この三つの茶碗は、火の神、トゥパシリの神、床の神のいわゆるミティムンに供える意味があるという。さらに、女性たちは白衣装を着て村落祭祀に参加する場合、家を出る前に火の神、トゥパシリ、床の神に線香を立てて簡単な礼拝をするが、仏壇はまったく関係しない。(p.150)

また、このミティムンの神は祖霊を祀るようになって以降も、別の神であることが意識されている。以下の赤嶺氏の記述に注意していただきたい。

さて、これまでの検討結果からも予想されたことであるが、実際の儀礼面においても祖霊とその他の神霊(火の神、トゥパシリの神、床の神)とは同列に置かれない。(p.150)

また、次の記述も見ていただきたい。

仲原善忠は、「祖霊は、本来、報本反始の孝道の観念から生まれたもので、その祭祀は死人のためのもので、生ける人のためではない。祖霊に加護を求めるのは、神に求めるのとは趣を異にする。火の神は、神として祭るので、神と人とのあいだになんら親近性はない。その前に捧げる供え物も、火の神は花米、神酒、線香などでお嶽神と同じである。祖霊の供物は右のほか、晴れの食物で、心からの供え物である。祖霊は供養、火の神は祈願の対象といってもよい、と思う。」と述べているが、火の神の部分を、火の神、トゥパシリの神、床の神のミティムンに置きかえて読むと、これまでみてきた久高島の家祭祀の実態にかんがみて興味深い見解といえる。子どもの受験の合格祈願をウムリングァに依頼したある家の事例において、火の神とトゥパシリ、床の神が拝みの対象となり、仏壇は拝まれていないのは、仲原の見解と見合うものである。(p.153)

祖霊と神は別であった

久高島の家には、近年まで祖霊祭祀専用の祭壇(今日の仏壇)がなかった。そして、久高島の祖霊(死霊)は総じてカミと対立的な関係にあり、位牌の普及や墓祭祀の奨励も含めた祖先祭祀をめぐる近世の王府の政策は、近年に至るまで久高島にはほとんど浸透していないことが確認できた。(p.404)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統、習慣、宗教儀礼、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開き、神に思いを向けることが大切だと思います。

新約聖書 使徒行伝 22章1~11節

「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。

そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。

そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。

さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。

旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。

これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。

わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。

わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。

パウロの弁明

パウロはユダヤ人の誤解を解くために弁明を始めました。人々は静まってパウロの話に耳を傾けたとあります。パウロは自分もユダヤ人であり、ユダヤ教に熱心であり、以前はイエスの弟子たちを迫害していたと言いました。その途中でイエスに出会ったという不思議な体験を話しています。実際にそのような不思議な出来事があったのか、イエスの教えが正しいということが分かったということを、このように表現しているのか、分かりませんが、このような不思議な出来事は絶対にないとも言えないと私は思っています。ただ、イエスと出会った時に、パウロはイエスが正しいと瞬時に受け止めたように記されています。どうして、いきなりイエスが正しいと分かったのでしょうか。それは記されていないので分かりませんが、その心で何が正しいのかということは、分かる時には一瞬で分かるということなのかもしれません。いずれにしても、今まではパウロにとって憎しみの対象であったイエスが、正しいということを、その心で直感した瞬間なのではないかと思います。神はすべての人に良心を与えていますから、本当は何が正しいことなのか、それは頭ではなく、思想でもなく、イデオロギーでもなく、神に思いを向けるなら、その良心で分かるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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