日本人の素晴らしさを正しく知る
火曜日のテーマは「日本人と日本文化」です。何が素晴らしいのかを知って欲しいと思います。そして、日本人としての正しい誇りを持ち、日本文化を大切にしましょう。それは神様を中心とする生活によってもたらされたことを知り、全ての日本人に神様を中心とした生活をしていただきたいと願っています。それが世界に平和と希望をもたらすと思っています。
禅宗の僧侶である松山大耕さんの話
最近、友人がシェアしてくれた「日本はなぜ『宗教戦争』が起きないのか!?ある現役僧侶のスピーチが世界中で賞賛される!」という動画を見ました。臨済宗大本山妙心寺退蔵院副住職の松山大耕さんという方ですが、日本人、日本文化の素晴らしさという点で共感する部分がありましたのでご紹介させていただきます。一度、動画を見ていただければと思います。15分くらいの動画です。
日本人の宗教に対する寛容な態度
世界中で宗教による紛争が起こっています。しかし、日本では様々な宗教を信仰する人々がいても、争いが起こらないのは、日本人の宗教に対する寛容、他宗教を尊重する態度があるからだと松山氏は指摘しています。クリスマスを祝い、除夜の鐘を突き、初詣に出かける日本人を、外国人は笑うかもしれないが、それはむしろ大切なことではないかと言っています。
日本のカレー
仏教発祥の地であるインドの僧侶が見たら、日本の仏教は仏教ではないと言うかもしれない。それは「日本の仏教」と言うべきものだろうと松山氏は言います。本来、仏教は仏陀の教えに基づくものですが、それが日本において日本独特の発展を遂げた仏教になったと松山氏は言います。それはインドと日本のカレーの違いに例えられるというのが面白くて分かりやすいですね。
日本人の寛容性が世界を救う
このように宗教というものは、もとになる教えはあったとしても、それぞれの国の気候、風土、歴史、文化、伝統などによって洗練され、それぞれの発展を遂げるものだと松山氏は説明し、日本人の寛容性のある宗教観というものを世界の人々と分かち合えば、世界に大きく貢献できると確信していると言っています。
和をもって尊しとなす
実は私もこの点においてはまったく同じことを考えています。日本人は自分とは違う考え方を尊重することができると思います。以前にこのブログでも書きましたが、「和をもって尊しとなす」という日本人の倫理観は、みんな同じ考え方になるということではなく、自分とは違う考え方の人とも一つになるということだと思います。だから日本人は議論して相手を論破することではなく、違う意見も受け入れながら一緒にやって行こうとするのだと思います。
それは宗教より根底にあるもの
なぜ、日本人はそのような倫理観を持っているのか。そのことに松山氏は触れていませんが、私は聖書にあると思っています。日本人の精神性、文化、伝統に聖書の価値観が大きく影響していると私は思います。日本人にも様々な宗教を信仰する方々がいらっしゃると思います。でも、この日本人の精神性というものは、日本人にとっては宗教よりも根底にあるものなんだろうと私は思います。
神様を中心とした生活
だから、何の宗教を信仰しているのかに関わらず、神様を崇め、神様の思いを中心にして生きる。それが日本人の精神性をこれまで築いて来たのだと思います。この日本人の心を大切にしていただきたい。それが「日本人の信仰と聖書について考える会」の願いです。それでは今日も聖書の続きを呼んで、宗教ではなく、神様に思いを向けてみたいと思います。
新約聖書 ルカの福音書19章41~44節
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
イエスは泣いて言われた
いよいよエルサレムが見えるところまでやって来ました。しかし、イエスは泣いて言われたとあります。エルサレムは平和のことを知らない。今は隠されていて、それが分からない。実際、イエスが言われた通り、A.D.70年にエルサレムはローマ軍によって完全に滅ぼされてしまいました。それは「神の訪れの時を知らなかったから」。
そこは宗教の一大拠点
エルサレムには大きな神殿がありました。そこは宗教の一大拠点でした。パリサイ人、律法学者を始め、みな宗教に熱心に取り組んでいました。でも、彼らは自分たちの宗教には熱心でしたが、神様を中心にしてはいませんでした。そういうことがあり得るということだと思います。
人類が求め続けて来た故郷がここにある
神様は決して宗教ではありません。「平和のこと」、「神の訪れの時」。それは神様を中心にして生活することを言っていると私は思います。世界には様々な宗教があると思いますが、どんな宗教を信仰する人も、どんな民族も、いつの時代の人々も、神様を中心に生きるところに平和があると思います。そこにしかないと私は思います。今日、神様を中心にして生きましょう。それがこれまで人類が求め続けて来た故郷だと思います。