「イザナギ」と「イザナミ」はユダヤ式で結婚したのか
「古事記」には「イザナギ」と「イザナミ」の結婚式の話が出て来ます。その時、二人は柱のまわりを回ったとありますが、元駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏は、この場面はユダヤ教の結婚式を思わせると言います。古代日本にはイスラエル系渡来人の影響があったと考えられることについて、今日も坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介いたします。以下、坂東氏の著書からの引用です。
ユダヤの結婚式
私がイスラエルに滞在していた時も、何度かユダヤの結婚式の招待を受けた。その結婚式では、花婿のまわりをきれいに着飾った花嫁がぐるりと回る、という儀式が行われる。地域によっては、きれいに飾った柱があって、そのまわりを回ることもあるという。これはユダヤ教の伝統なのである。
「あなにやし えをとこを」、「あなにやし えをとめを」
このユダヤの結婚式は、天の御柱を回ったイザナギとイザナミの結婚を彷彿とさせるものがある。・・・また、多くの研究者が注目しているのはイザナギとイザナミが柱を回った後、お互いに言った言葉である。・・・イザナミは、「あなにやし えをとこを」と言い、イザナギは、「あなにやし えをとめを」と言ったと「古事記」には書かれている。
一般的な解釈
一般的には、「あなにやし えをとこを」の意味は、「ああ、なんといいおとこなんでしょう!」という意味であり、「あなにやし えをとめを」は、「ああ、なんといいおとめなんでしょう」という意味だとされている。
「アナニヤシ」をヘブライ語では
ここで、「ああ、なんと・・・・・・」の意味とされている「アナニヤシ」という言葉だが、本当はどのような意味なのだろうか。謎の言葉である。しかし、これがヘブライ語だと意味が通るのだ。「アナニヤシ」という言葉はヘブライ語の「アニーアシー」ではないか、といわれる。その意味を訳すと「私は結婚します」という意味なのである。
ユダヤ式の結婚
もし「アナニヤシ」がヘブライ語の「アニーアシー」つまり「私は結婚します」という意味だとしたら、「古事記」のイザナギとイザナミの結婚のシーンの言葉の意味は、「あなにやし えをとこを」(私は結婚します。素晴らしい男性と)、「あなにやし えをとめを」(私は結婚します。素晴らしい乙女と)となり、意味が通じるのである。つまりユダヤ教式の結婚式を挙げたイザナギとイザナミは、ヘブライ語で結婚の誓約をしたのである。(本からの引用は以上です。)
古代日本にユダヤ人の影響
このように「古事記」には聖書には書かれていないようなユダヤ人の風習も見ることができるようです。これは古代日本にユダヤ人の影響があったことを示しているのではないでしょうか。ユダヤ人が崇めた神、それは聖書にも記されている神様ですが、太古の昔から日本人は同じ神様を崇めて来たのではないかと私は思います。今日も聖書の続きを読んで、私たちの神様に思いを向けていただきたいと思います。
新約聖書 ルカの福音書24章33~43節
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
よみがえったイエスに会ったという証言
シモンとはイエスの十二使徒の筆頭ペテロのことだと思います。ペテロもよみがえったイエスに会ったという話をしていました。するとそこにイエスが立たれた。どこから入って来て、どのように立たれたのか分かりません。この記述からするなら、突然そこに現れたような印象も受けます。彼らは驚き恐れ、霊を見ていると思ったと記されています。
肉体をもってよみがえられた
しかし、イエスは霊ではない、手や足にさわって、よく見なさい、肉も骨もあることを示されたと書かれています。肉体をもった人間の姿としてイエスはよみがえって、使徒や弟子たちの前にその姿を現したと聖書は言っていると思います。まだ信じられない弟子たちに、イエスは魚を食べる姿も示されました。
そんなことがあるのでしょうか
そんなことが本当にあるのだろうかと思うのが普通だと思います。人間を中心に物事を見れば、そうだと思います。でも、宇宙を造った神様に、どうしてそれが出来ないと言えるでしょうか。中心を変えなければならないと思います。聖書は明らかにイエスが肉体をもってよみがえったと伝えています。そういう神様は確かにおられるということだと私は思っています。
神様を中心にする
この神様がいつでも、どこでも私と共にいてくださる。たとえあなたが今どんな状況に置かれていたとしても、この神様を中心にして生きるなら大丈夫だと思えるのではないでしょうか。これは私たち日本人が太古の昔から大切にしてきた信仰だと思います。