イエスの教えた信仰
「メシアニック・ジュー」という言葉を聞いたことがありますでしょうか。それはイエスをメシヤ(救い主)と信じるユダヤ人のことです。どうして彼らは「クリスチャン」とは言わないのでしょうか。その理由が分かると、イエスの教えた信仰は必ずしもキリスト教ではないということが見えて来ます。
異邦人にもユダヤ人の生活をさせるべきか
新約聖書の「使徒の働き」を見ると、異邦人(ユダヤ人ではない人々)の間でイエスをメシヤと信じる人が現れるようになると、彼らにも割礼を受けさせて、モーセの律法を守らせ、ユダヤ人のような生活をさせるべきかどうかという問題が議論されました。その結果、その必要はないということになりました。
ユダヤ人はクリスチャンになるべきか
その後、異邦人でイエスをメシヤと信じる人々(彼らは「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになったとあります)が増えて来ると、数の上で逆転現象が起こり、ユダヤ人でイエスをメシヤと信じる人々(メシアニック・ジュー)を圧倒するようになり、今度はユダヤ人が異邦人クリスチャンのようになるべきだということになって来ました。
ユダヤ人としての生き方
やがてキリスト教会はユダヤ人を迫害するようになります。このような歴史の中で、ユダヤ人はイエスをメシヤと信じても、クリスチャンになることを拒否し、むしろユダヤ人としての生き方を大切にして、自らをメシアニック・ジューと呼ぶ訳です。
大切なことは神様を中心にすること
私はここに信仰の本質を考える鍵があると思います。大切なことはクリスチャンになることではないと思います。もちろん、私たち日本人はユダヤ人になることでもないでしょう。大切なことは神様を中心にして生きることだと思います。
日本人としての生き方
このようにイエスをメシヤと信じる信仰は必ずしもクリスチャンになることではありません。ユダヤ人がイエスをメシヤと信じてもクリスチャンにはならず、ユダヤ人としての生き方を大切にして、自らをメシアニック・ジュー(メシヤを信じるユダヤ人)と呼ぶように、私たち日本人もクリスチャンにならないで、日本人としての生き方を大切にして、自らをメシアニック・ジャパニーズと呼ぶこともできるかもしれません。
大切なことは生き方
呼び方はともかくとして、大切なことはクリスチャンになることではなく、日本人は日本人としての生き方を大切にしつつ、神様を中心にして生きることではないかと思います。宗教ではなく、生き方について考えていただければと思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 13章13~31節
パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」
そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕(みうで)を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
そして約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました。それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。
それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。
『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。
そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
旧約聖書からイエスについて語る
パウロの話はまだ続きますが、「イスラエルの人たち」とは、もちろんユダヤ人のことです。「神を恐れかしこむ方々」とは、異邦人でイエスを信じ、神様を中心にして生きるようになった人々を指していると思います。パウロはここで旧約聖書からイエスについて説明をしています。
ユダヤ人の歴史
それは全てユダヤ人の歴史であって、異邦人の歴史ではありません。もちろん、神様はユダヤ人だけの神様ではありませんが、ユダヤ人を通して、全世界に神様を中心として生きる幸いを示されたのだと思います。キリスト教もその一つの形だと思いますが、全てではありません。私たちは日本人であることを大切にしながら、神様を中心にして生きることを考えたいと思います。