駐車場での当て逃げ

駐車場

ある日の出来事

先日、スーパーの駐車場に車を止めていたら、ちょうど真向いのスペースに白い高級外車が入って来ました。助手席から奥様と思われる方がドアを開けて車を降りようとした所、風にあおられたのか、ドアが勢いよく開いて、隣に止まっていた車のドアに強くぶつかりました。

確かに気が付いたと思います

私の車からは少し距離があるので、どのくらいの傷がついたのかは確認できませんが、あの勢いでは結構へこんだのではないかなと思います。奥様も「あら!」という感じで見ていましたので、気が付かなかったということはなかったと思います。

逃げてしまった!

どうするかなと思って見ていましたが、奥様はドアを閉めると、ご主人はその場から車を移動して、どこかへ行ってしまいました。私も以前、駐車場に車を止めて、買い物をして帰ってきたら、左フロント部分をぶつけられていたことがありましたが、ぶつけた方はどこにもいらっしゃいませんでした。

こんなことって結構あるのでしょうか

こんな人ばかりだとは思いたくありませんが、日本人でもこんな人が結構いるのでしょうか。高級外車に乗っているのですから、おカネの問題ではないのでしょう。それに保険にも入っているだろうと思います。謝りたくないということなのでしょうか。それとも、もっと大きなトラブルに巻き込まれたくないと思って、逃げちゃったんでしょうか。

良心が麻痺しているのではないでしょうか

それにしても良心がどこか麻痺してしまっているのかもしれません。それが怖いですね。神様の前に正しく生きるというのは、誰も見ていないから構わないという生き方をしないということでもあると思います。その人の生き方、信念、人生の質が問われることだと思います。

その人の本当の姿

どんな仕事をして、どんな肩書があって、どんなことを言って生活しているのか分かりませんが、人が見ていないところで、どのような行動を取るのかということは、その人の本質を表しているのではないかと思います。

中身が大事

本当に私の人生はこれで良いと思える生き方は、人生の質に関わる事柄であり、人ではなく、神様を中心にして正しく生きるところにあるものだと私は思います。そして、表面的にはかっこよく生きていたとしても、内面の本質がその人の人生の質を決めてしまいますし、こんな人が多くなれば、その社会の質も落ちてしまうと思います。

内側にあるものが外側に現れる

イエスは偽善の宗教家に対して「おまえたちは外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」と指摘し、「内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」と教えたことが福音書には記録されています。

尊厳ある人生

完全な人は誰もいませんが、良心を偽れば麻痺します。いつも神様を意識して、神様を中心にして、尊厳を持った人生を生きていただきたいと願っています。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 16章1~5節

それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。

テモテには割礼を受けさせたパウロ

異邦人がイエスをメシヤとして受け入れて、神様を中心として生きるために、割礼を受けてユダヤ教徒になる必要はないということをはっきりとさせたパウロでしたが、テモテには割礼を受けさせたと記されています。これをどう理解したら良いのでしょうか。

ユダヤ人とギリシヤ人の結婚

ユダヤ人が異邦人と結婚するということはユダヤ国内では考えられないことだったと思いますが、ユダヤ以外の地方都市において、特にギリシヤ語を使うユダヤ人の間では許容されたのでしょうか。

なぜテモテに割礼を受けさせたのか

テモテは父親がユダヤ人ではないので、そのままではユダヤ人とはみなされなかったのでしょう。また、生まれて8日目の割礼も受けていませんでしたので、本人もユダヤ人としての自覚はなかったかもしれません。しかし、半分はユダヤ人の血が流れていましたので、割礼を受けることで、テモテはユダヤ人になることができたということではないでしょうか。

福音はユダヤ人から

その理由を「その地方にいるユダヤ人の手前、・・・彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」と説明しています。これからパウロはテモテを連れて、神様について、メシヤについて、救いについて話そうとしていました。そのような話をユダヤ人が異邦人から聞くということは考えにくかったのではないでしょうか。テモテがユダヤ人であれば、その地方のユダヤ人も耳を傾けやすかったということではないでしょうか。

神様はユダヤ人を通して全人類を祝福する

もちろん神様はお一人しかおられません。神様は全人類の神様だと思います。しかし、神様はユダヤ人を選んで、ご自身を現され、ユダヤ人を通して全人類を祝福すると聖書には記されています。私たちは神様について、ユダヤ人から多くを学ぶことができるのではないでしょうか。

古代日本にあったユダヤ人の影響

古代日本にはイスラエル系渡来人があり、日本人の信仰、文化、伝統に大きな影響を与えたことについて、すでにこのブログでもお伝えしています。実は人類の歴史を調べてみると、ユダヤ人の信仰は日本だけでなく、全世界の人々に影響を与えているようですが、ことさらに日本にはその影響が今日まで色濃く残っていることが窺えると思います。

日本人として聖書を読む

もちろん私たちはキリスト教から学ぶこともあると思いますが、キリスト教が全てということではないと私は思います。むしろ、キリスト教の先入観を取り除いて、日本人の信仰のルーツである聖書を、日本人として読むことが大切ではないかと私は思っています。大切なことは宗教ではなく、神様を中心にして生きることです。日本人はそのことが良く分かっているのではないでしょうか。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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