先週は京都の祇園祭とユダヤ人の関係についてご紹介いたしました。今日はエルサレムの神殿にあった「契約の箱」が日本に持ち込まれた可能性について、坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介いたします。
徳島県の剣山に伝わる伝説
徳島県の剣山には、ソロモンの秘宝が埋葬されているという伝説がある。「そんなばかな」と驚くかもしれないが、その伝説を裏付けるような不思議な祭りも祇園祭の山鉾巡礼と同日である七月十七日に行われている。
神輿をかついで剣山の山頂を目指すという祭
それは、千九百五十五メートルある剣山の山頂目指して、神輿が運ばれるというものだ。ユダヤの「契約の箱」が元になってできた神輿が剣山の山頂めがけて駆け上るのである。
「契約の箱」は剣山に隠されたのではないか
国を滅ぼされて新天地を求め、海の道を経て四国に辿り着いたユダヤ人たち。彼らがこの四国でノアの箱舟の故事を記念し、「契約の箱」を剣山に担いで登り、ソロモンの秘宝と共に山頂に埋めたということだろうか。
当時、船による行き来は普通に行われていた
ソロモン王の時代にイスラエルからの貿易船がインドまで辿り着いた、という記録もあるので、国を失ったユダヤ人がそのまま海路で日本に向かった、と考えてもおかしいことはない、と主張する人もいる。
バビロン捕囚の時にはすでに持ち出されていた「契約の箱」
ユダヤの民が王国の滅亡に際して、大切な「契約の箱」が略奪されるのを恐れ、新しい土地を求めて、海のシルクロードを経てはるばる日本の四国まで来た、ということなのだろうか。
「契約の箱」は日本に持ち込まれたのか
また、剣山の周辺には二百基以上の古墳が集中しており、最古の前方後円墳といわれる萩原墳丘墓もこの阿波地方にある。一説では前方後円墳の形は、イスラエルの三種の神器の一つ、「マナの壺」ではないか、ともされている。
もし、「契約の箱」が剣山にあるとしたら、その中に「マナの壺」があってもおかしくはないだろう。(本からの引用は以上です。)
日本人の信仰のルーツ
他にも四国には古代ユダヤ人が辿り着いたことを示す史跡が数々あるようです。それらについては来週ご紹介いたします。これらもまた古代日本にイスラエル系渡来人があったことを示す一つの証拠ではないかと思います。日本人の信仰、風習、文化には聖書の民であるイスラエル民族の影響があると考えることができる証拠ではないかと私は思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の信仰のルーツであり、神様を中心として生きようとした人たちの記録です。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして日本人らしく生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。
新約聖書 使徒の働き 28章23~31節
そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
『この民のところに行って、告げよ。
あなたがたは確かに聞きはするが、
決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は遠く、
その目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、
その耳で聞き、
その心で悟って、立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。』
ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」
こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
不思議なこと
不思議なことですが、ローマにおいても、旧約聖書からイエスがメシヤであるということを、パウロはユダヤ人たちに理路整然と説明しましたが、良く分かって受け入れるユダヤ人もいれば、受け入れないユダヤ人もいました。パウロにしてみれば、すべてのユダヤ人が受け入れても良いのではないかと思っていたのではないでしょうか。しかし、どうやらそうではないようです。旧約聖書のイザヤ書にもそのように書かれていることをパウロは思い出したのだと思います。
確かに不思議なこと
自己中心を止めて、神様を中心にするなら、どんな問題も解決し、私の人生はこれで良いという生き方をすることができる。それは何かの宗教をやることではない。すべての人が、「そのとおりだ」と言って受け入れるかというと、必ずしもそうでもないのかもしれません。
異邦人世界に広がっていく
そこでパウロは、すべてのユダヤ人が受け入れるまでユダヤ人を説得するということではなく、その後はユダヤ人ではない人たち、つまり異邦人に伝えると言っています。こうして、神様を中心にして生きるという信仰は、まずユダヤ人に与えられた信仰でしたが、それは異邦人世界に広がり、やがて西欧キリスト教へと発展して行くことになったのだと思います。
その背後にある神様の計画
その背後には神様の計画があるのだろうと思います。人間の働きだけで事が進む訳ではないのだと思います。そして、西欧キリスト教とは別のルートで、ユダヤ人を通して、神様を中心にして生きるという信仰は日本にも伝えられていたのだと思います。そこにも神様の計画があったのだと思います。
日本人の信仰として
ですから、私たち日本人は、キリスト教や宗教ではなく、(もちろん、それを否定するものではありませんが、)日本人として、神様を中心として生きることが大切ではないかと私は思っています。
いかがでしたでしょうか
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吉村先生のお考えに無条件アーメンです。私は、利己心さえなくせば全世界の全ての問題は5分以内に解決すると信じている者です。他人の幸せ、他人の喜びだけのため考えていきる人が無我になったものだと思います。なんの考えも無しに頭を空っぽにして座っているのが無我ではなく、自分のための考えは何一つなく、どうすれば他人を幸せにできるか、ということで常に考えが一杯になったひとが神様と同行するエノクのような人ではないでしょうか。
竹光嗣夫様
共感のコメントを寄せてくださり、本当にありがとうございます。大変嬉しく思います。一人でも多くの人がこのような生き方に喜びを見出して欲しい。利己主義は結局自分を滅ぼしてしまうことを知って欲しいと願っています。竹光さんのおっしゃる通り、無我とは頭の中がからっぽな状態ではなく、他人にためにという思いでいっぱいにし、利己主義を追い出すことだと思っています。利己主義こそ罪の本質であり、それ自体は修行してもなくならないものだと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。またコメントしてください。お待ちしております。