正しい恋愛と結婚 「この人となら不幸も一緒に背負える!」

本当に恋愛と結婚は別でしょうか

恋愛、結婚に関するサイトを見ると、「恋愛と結婚は別」と注意を促す内容が多いですね。「恋愛」は夢の世界。「結婚」は現実の世界。んー、どうなのでしょうか。確かに「恋愛」と「結婚」は似て非なるもの?どこが似ていて、どこが違うのでしょうか。私は「恋愛」も「結婚」も現実の世界であり、夢の世界でもあると思うのですが。

切り離して考えるべきではない

私は恋愛は結婚の真似事でも、前味でも、別のものでもなく、結婚した男女に与えられた喜びだと考えています。だから恋愛と結婚を切り離して考えるべきではないと私は思います。また結婚前に恋愛感情だけが先行してしまうことがないようにすべきだと思います。そのように考えるなら、恋愛と結婚は別ではないと私は思います。

あるサイトを見ていたら

ある恋愛と結婚に関するサイトを見ていたら、恋愛が上手なら必ずしも結婚が上手、良い奥さんになれるとは限らないと書いてありました。また、結婚したら必ずしも幸せになれると考えない方が良いと書いてありました。んー、ここまでは恋愛と結婚は別と考える考え方だと思いますが、その次の文章に「そのとおり!」と思いました。

これこそベストパートナー!

それは、「この人となら幸せになれる!」ではなく、「この人となら一緒に不幸を背負える」と思える人と出会うことができるなら、その人こそがベストパートナーかもしれません。という文章です。

意志と決意

私はその通りだと思います。それは恋愛感情を中心としたものではなく意志と決意を感じます。愛とは恋愛感情を含むものだと思いますが、それは結果であって、大切なことは意志であり決意だと思います。長い人生の間には、風の日もあれば、嵐の日もあるでしょう。それでも一緒に乗り越えるという決意こそが愛だと思いませんか。

神様を中心にする

そのことを誓うのが結婚の誓約だと思いますし、それが神様を中心とした結婚だと思います。そこに恋愛という感情が伴うものではないでしょうか。このような心を日本人は昔から大切にしてきたのではないかと思います。恋愛も結婚もその時の感情ではなく神様を中心にして考えてみてください。そこに深い喜びがあると思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にするための参考にしてみてください。とても参考になると思います。

新約聖書 使徒の働き 24章1~9節

五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルテロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。パウロが呼び出されると、テルテロが訴えを始めてこう言った。

「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しておりますが、その事実をあらゆる面において、また至る所で認めて、私たちは心から感謝しております。

さて、あまりご迷惑をおかけしないように、ごく手短に申し上げますから、ご寛容をもってお聞きくださるようお願いいたします。この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。

この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは彼を捕らえました。閣下ご自身で、これらすべてのことについて彼をお調べくださいますなら、私たちが彼を訴えております事がらを、おわかりになっていただけるはずです。」 ユダヤ人たちも、この訴えに同調し、全くそのとおりだと言った。

双方の言い分を聞いて事実確認をする

双方の言い分を聞くことが大切なことだと思います。大祭司たちのパウロに対する訴えを聞いて、パウロの言い分も聞いて、その上で何が正しいことなのかを客観的に判断しようとすることが大切だと思います。どちらかの味方をするとか、ある人の思惑で事を運ぼうとすることは正しいことではありません。体制側にとって都合が良いとか悪いという判断基準も正しくありません。神様の前に何が正しいことなのかを客観的に判断しようとすることが大切なことだと思います。

正義はなる

少なくともパウロはユダヤ議会の体制側の思惑によって闇から闇へと葬られてしまうという事態から救われました。その上には神様の見えざる手が働いているのだろうと思います。一時的に不正がまかり通るような現実があったとしても、正義は必ず明らかになる時が来ると思いますし、そういう神様は確かにおられると思いますし、そのように生きることが神様を中心にすることだと思います。

誤解なのか悪意なのか

テルテロの訴えの内容を見れば、そこには事実誤認があると思います。体制側の人たちの反対の根拠はパウロに対する誤解に根差しているように思います。しかし、対立とは多くの場合そのようなものではないかと思います。謙虚に誤解を解くことができれば良いのですが、誤解だと気付いたにも関わらず、それでも認めたくない、排除したい、自分の意見を通したい。そうなると問題解決を阻んでいるのは、やはり自己中心(罪)だということが多いと思います。

自己中心なのか

自分を通したいのでしょうか。それとも本当に神様の前に正しいことは何かを求めているのでしょうか。そこに決定的な違いがあるように思います。政治も、世界の紛争も、人間関係のトラブルも。自己中心を力と画策で押し通すのでしょうか。それとも神様を中心にするのでしょうか。そこに全ての問題の解決があると思います。

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