我が家のホームスクーリング。仕事と勉強。

我が家のホームスクーリング。先週のつづき

その後、我が家は宮城県に引っ越し、私と長男が仕事をし、二人の娘はインターナショナルスクールで英語を学び、その他の教科は家で妻がみるという生活になりました。長男が16歳、長女が14歳、次女が13歳だったと思います。

高校の勉強を通信で

将来、大学に進学したいとなった時のため、また、それ自体英語の勉強にもなるということで、長男は仕事をしながら、アメリカの通信高校の学習を始めました。英語ができるようになっていたので、それが可能でした。英語で教科書を読んで、英語でレポートを書くことによって、長男の英語力はさらに伸びたようです。やがて長女と次女も英語ができるようになり、長男と同じアメリカの通信高校を卒業しました。

長男は大学へ

長男は20歳の頃にはイラストやデザインの仕事をするようになっていましたが、その仕事をずっと続けるのか将来的に不安を感じるようになったようです。そこで退職して大学に行くことにしました。英語なら将来仕事になるだろうということで、英語関係の大学に進学することにしました。入試ではアメリカの通信高校の卒業を日本の高校卒業資格と認定していただき、試験科目も英語だけでした。本人が大変入試の勉強を頑張ったことはもちろんですが、英語が出来たおかげで浪人することもなく合格できたと思います。こうして振り返ってみると、半年カナダに行ったことが彼の生活を大きく支えているんだなあとあらためて思います。

宮城県でも家族でパンフレット配布を始めた

長男は埼玉県で一人暮らしをしながら大学生活を始めました。我が家では私が文章を書いて、長男がイラスト、デザインをして、神様のことを伝えるパンフレットを新たに作成し、家族四人で地図を塗りつぶしながら各戸配布を再開しました。私は仕事をしていましたので月2回くらいしか行けませんでしたが、妻と娘たちは毎日のように出かけました。それは東日本大震災まで続きました。震災後の事は、また来週書きたいと思います。

神様を中心にする

その頃は、まだ「大切なことは神様を中心にすることだ」ということが今ほどはっきりしていませんでしたので、他のクリスチャンの言葉や西欧キリスト教の伝統的な考え方にも強く影響されていたと思います。また、他のクリスチャンの言葉や西欧キリスト教の伝統的な考え方と言っても一様ではありませんので、何が神様の声なのかと戸惑っていた時期でもあったと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心とした幸いな人生を生きる上で大変参考になると思います。

新約聖書 使徒の働き 23章25~35節

そして、次のような文面の手紙を書いた。「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下にごあいさつ申し上げます。この者が、ユダヤ人に捕らえられ、まさに殺されようとしていたとき、彼がローマ市民であることを知りましたので、私は兵隊を率いて行って、彼を助け出しました。

それから、どんな理由で彼が訴えられたかを知ろうと思い、彼をユダヤ人の議会に出頭させました。その結果、彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関する問題のためで、死刑や投獄に当たる罪はないことがわかりました。

しかし、この者に対する陰謀があるという情報を得ましたので、私はただちに彼を閣下のもとにお送りし、訴える者たちには、閣下の前で彼のことを訴えるようにと言い渡しておきました。」

そこで兵士たちは、命じられたとおりにパウロを引き取り、夜中にアンテパトリスまで連れて行き、翌日、騎兵たちにパウロの護送を任せて、兵営に帰った。騎兵たちは、カイザリヤに着き、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。

総督は手紙を読んでから、パウロに、どの州の者かと尋ね、キリキヤの出であることを知って、「あなたを訴える者が来てから、よく聞くことにしよう」と言った。そして、ヘロデの官邸に彼を守っておくように命じた。

神様に何を任せるのか

神様を中心にするとは、自分からは何もしない、何も言わない、言われるまま、されるまま、全てを神様にお任せするということではないと思います。必ずしも理解され、受け入れられるかどうかは分かりませんが、神様の前に正しいと思うことを主張し、最善を尽くすことは大切だと私は思います。その上で結果は神様にお任せすることが神様を中心とすることではないでしょうか。パウロもそのようにしているように思います。

陰謀から守られたパウロ

パウロを暗殺しようという陰謀は不思議なことにパウロの知るところとなり、ローマの千人隊長もパウロが暗殺されないように取り計らいました。パウロは死にたくないので、いろいろと画策したのではありません。神様のためならパウロはエルサレムで死ぬことも覚悟していました。パウロは神様の前に正しく、出来る最善のことをなし、その全ての上に神様の守りと導きがあったということだと思います。

神様と私たち

私たちは死ぬ時は死ぬと思いますが、それも神様に任せて、心配しないで、神様の前に最善を尽くせば良いということだと思います。それが神様を中心とすることであり、それが日本人の心ではないでしょうか。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。