生きる意味

生まれたての赤ちゃん

「人生はなぜ異常なほどに無意味なのか。」というサイトにいろいろな人の意見がまとめられていましたので一部をご紹介いたします。その答えは実に明快だと思います。それは神様を中心にしていないからだと私は思います。皆さんはどう思われますか。

人生はなぜ異常なほどに無意味なのか

「人生」なんて考えて生きてる生物は人間だけ
もともと意味なんてない
たまたま脳が発達した生物が地球上で誕生しただけ

本能だけで生きてる生物ならこんなこと考えずにすむ

ただ生きてるだけってのは誰もがわかっている
動物も同じ、表面的に人間社会で生きて行く価値観を備えたモードを取り繕ってるけど、どんどん考えていくと何も誰も差はなくただ生きてるだけ

昨日からみて今日はやはり無意味だった
明日も無意味だろう

目的なんてのは人間の錯覚かもな

意味がなくても人は生きられる

結局生まれたから生きるしかないんだよね
何の意味もないのに

俺がこの先どんなに頑張っても歴史に名を刻むことは無い
たとえ歴史に名を刻んだとしてそれが何になるというのか

それを探すのが人生さ
とか言うやついるけどなんの解決にもなってないよねただ先延ばしにしてるだけ

結局子孫残してもさ
何がしたいの?って感じじゃね
何が目的なの

我等の世界に意味などなく
そこに生きる我等にも 意味などない
無意味な我等は 世界を想う
そこに意味は無いと知ることにすら
意味など無いとい うのに

人間中心からは意味は出て来ない

いかがでしょうか。神様を離れ、人間を中心に考えていても、決して人間が生きる明快な意味は出て来ないのではないでしょうか。なぜなら、私たちが生きる意味は私たちの内にではなく、私たちを造られた神様の中にあるものだからだと私は思います。神様は意義と目的を持って私たち人間を造られました。その神様の目的を中心にして生きることが人間の生きる意味だと私は思います。

必ずしも宗教ではない

神様の思いや願いを中心にして生きることは必ずしも何か特定の宗教を信仰することを意味しないと私は思います。確かに宗教は神様を指し示し、神様を中心にして生きる助けになる部分もあると思いますが、一方でそれぞれの宗教独特の教えもあり、他宗教を否定するという側面もあるとすれば、結果として神様の思いから離れてしまう危険性もあるように思います。宗教ではなく、神様を中心にして生きることが大切だと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。もちろん神様を中心にして生きるために参考となる本は聖書だけではないと思いますが、聖書は神様を中心にして生きようとした人々の世界最古の記録であり、実は日本人の信仰と生活のルーツでもあります。キリスト教の教典というイメージが強いと思いますが、宗教の教典としてではなく、神様を中心として生きるためにお読みいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 4章12~17節

ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、
ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、
光が上った。」

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国(みくに)が近づいたから。」

旧約聖書のメシヤ預言の実現

メシヤニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)の聖書学者であるアーノルド・フルクテンバウム博士の著書によると、この箇所は旧約聖書イザヤ書8章22節~9章2節の引用であり、メシヤはゼブルン族とナフタリ族の地で主な宣教活動を行うことが預言されていると言っています。そして、確かに新約聖書を読むと、イエスは主にこの2部族の地で宣教を行ったことが分かります。イエスはゼブルン族の地にあるナザレで育ち、ナフタリ族の地にあるカペナウムを本拠地としました。このイザヤのメシヤ預言はイエスにおいて文字通り実現したとフルクテンバウム博士は言っています。

古代日本と古代イスラエルの関係

実はこのガリラヤにある湖はヘブライ語でキネレッテ湖と呼ばれ、それは楽器の竪琴、琵琶を意味します。イスラエルの首都エルサレムは「平和の都」を意味することと併せて考えると、日本の「平安京」と「琵琶湖」との関係を思わされます。遠くイスラエルから日本に渡って来た人々が、祖国に思いを馳せ、そのように命名したということは十分に考えられることではないでしょうか。

イエスの宣教の開始

そこでイエスは宣教を開始したと記されています。「悔い改めなさい。」それは方向を変えなさい。中心を変えなさいという意味だと思います。これまでの人間中心の生き方ではなく、神様の思いや願いを中心にした生き方に変えなさいということではないでしょうか。

神様を中心にして生きる

「天の御国」それはまさに神様を中心とした国という意味だと思います。ここに全ての問題の解決、つまり救いがあるとイエスは教えたのではないでしょうか。イエスの宣教の第一声がこの言葉であったと記録されていることを心に留めたいと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。シェアのご協力もよろしくお願いいたします。また、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いな人生を一人でも多くの皆様にお伝えしたいと願っています。そのためのパンフレット「日本人の心」(1部4円。100部以上で送料無料)もありますので、皆様のお知り合いの方々にもぜひお渡しください。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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