日本にある「キリストの墓」

キリストの墓道路標示

青森県三戸郡新郷村戸来(へらい)という所に「キリストの墓」があるのをご存知でしょうか。私は話には聞いていましたが、先日、訪ねることができました。

キリストの墓駐車場

到着してみると、道を挟んで2つの駐車場があり、きれいに整備された公園であることが分かりました。ところが冬期休園の表示!せっかくここまで来たのに!とりあえず、車を駐車場に置いて、歩いてみることにしました。

キリストの里公園案内図

「キリストの里・伝承館」は休園でも、公園は閉鎖されておらず、何とか雪の上を歩いて、「キリストの墓」までは行けそうです。

キリストの墓100m表示

あと100メートル!果たして「キリストの墓」とはどんなものなのでしょうか。

キリストの墓遠景あっ!ありました!あの向こうの一段高くなっている所に十字架が2つ立っているのが見えます。たぶんあれがそうでしょう。

十来塚

階段を上って、右側に「十來塚」と表示があります。これが「キリストの墓」だと表示されています。この「十來塚」と書かれた表示の上には「ダビデの星」が記されています。

十代墓

向かって左側には「十代墓」と表示があり、これはキリストの弟の「イスキリの墓」だと表示されています。こちらの表示にも「ダビデの星」がついています。

キリストの墓説明板

説明にはこのように書かれています。この内容は茨城県の竹内家に伝わる古文書によるもので、キリストがこの村で106歳の天寿を全うしたということが書かれており、昭和10年に「キリストの墓」と言われるようになったようです。それほど昔から言われていた訳ではないようですね。

額に十字を書く風習

しかし、この村には古くから生まれて間もない赤ちゃんの額に十字を描いて幸運を祈ったり、足がしびれた時には指につばをつけて、額に十字を3回書くとしびれが取れるという言い伝えがあったりするそうです。

村の名前、方言

また、村の旧名「戸来(へらい)」は「ヘブライ」が訛ったのではないかとも言われ、この村の方言で、大人の男を「アヤ」「ダダ」、大人の女を「アパ」「アバ」と言うのは「アダム」と「エバ」から来たものではないかとも言われているそうです。

ナニャドヤラ

さらに、この地域に伝わる「ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドヤラー」という歌の囃子言葉は、ヘブライ語で「神様をほめたたえる」という意味で、旋律もユダヤ民謡に似ているそうです。

ダビデの星

また、キリストの墓とイスキリの墓の表示にはダビデの星が描かれており、キリスト教というよりも、ユダヤ起源を感じさせます。何と新郷村の戸来小学校の校章はダビデの星だそうです。

ユダヤ系渡来人、メシヤニック・ジューの痕跡

キリストの墓の信憑性はともかく、私はこの地域に古くからユダヤ系渡来人、メシヤニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)の人たちが住んでいたことを示す痕跡ではないかと思いました。毎年6月の第一日曜日にこの公園で「キリスト祭」が行われると書かれていましたので、その頃、また来てみたいと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。古代日本には聖書の民であるユダヤ人が渡来したことを示す証拠が数々あり、今も日本人の信仰、文化、伝統にはその影響を色濃く見ることができると思います。聖書は日本人の信仰と生活のルーツだと言うことができると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を大切にし、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 4章18~22節

イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

弟子を呼び集める

イエスはガリラヤ湖周辺で宣教を開始され、まず弟子を4人呼び集められたことが記されています。彼らはイエスの話を聞いて、弟子にして欲しいと来た人たちではなく、仕事をしている時に、イエスの方から声をかけられたことが分かります。弟子が先生を選んで弟子入りしたのではなく、先生の方が弟子になりなさいと呼んだというのは不思議なことですね。

彼らは宗教家ではなかった

彼らは聖書学者でもなく、宗教家でもなく、漁師でした。神様を中心にして生きるというのは学問でもなく、神学でもなく、生き方だと思います。どんなに聖書知識があっても、どんなに学問があっても自己中心であれば、その人生に大きな問題を抱えることになると思います。しかし、どんなに小さな子供であったとしても、神様の願いや思いを中心にして生きるなら、その生き方には喜びがあると思います。

神様を中心にして生きる

難しいことではありません。自己中心を退け、神様の願いや思いを中心にして生きること。そこに全ての問題の解決があり、喜びがあり、救いがあるということだと思います。神様を中心にして生きてください。それは何かの宗教の信者になることではありません。何か難しい理屈を理解することでもありません。本来、日本人として当たり前の生き方だと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。シェアのご協力もよろしくお願いいたします。また、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人々に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部4円。100部以上で送料無料。)を作りました。どうぞ皆様のお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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