「日本人と日本文化」我が儘を言わず、力を合わせる

助け合い

日本人と日本文化の特質について、留学していた時のエピソードを伊勢雅臣著「世界が称賛する 日本人が知らない日本 」からご紹介いたします。

日本人の集団的能力

カリフォルニア大学で、私が教わった先生も、「日本人の学生は、一人ひとりではあまり意見発表をしないが、グループで共同研究をさせると、途端に何倍もの力を発揮する」と言っていました。逆に中国人やインド人の留学生は、一人ひとりは授業中にどしどし発言をしますが、グループを組ませると論争ばかりして、なかなか結果が出せません。日本人学生は、グループ作業について学校で訓練を受けたわけでもないのに、なぜ、こういう集団的能力を発揮できるのでしょうか。

力を合わせる

おそらく、家庭や学校、企業という集団生活の中では、お互いに我が儘を言わずに、力を合わせなければいけない、という不文律を知らず知らずのうちに、身につけてきたからではないでしょうか。これが「文化」ということだと思います。こうした「和」を尊ぶ文化的個性が、多くの人間の連携が不可欠なものづくりにおいて、特に強みを発揮しているのでしょう。(本からの引用は以上です。)

自己中心では評価されない

ものづくりについては、日本人の職人的気質、勤勉さ、妥協しないで理想を追求する、単なる技術や損得を越えた生きざま、人生観、信仰まで関係していると私は思いますが、確かに日本人は自己中心でないことがその特質だと思います。日本人でも自己中心的な人はいるかもしれませんが、そのような人は日本文化の中では評価が低いと思います。

「和」を重んじる日本人

自己中心ではなく、「和」を重んじることができることは、日本人が世界に誇ることができる特質ではないかと思います。そのような日本人の特質は決して偶然ではないと私は思います。その起源は古代日本に渡来した聖書の民であるユダヤ人、そしてイエスをメシヤとして受け入れたメシヤニック・ジューの神様を中心とした生き方に遡ることができ、その後、教育によって親から子へと引き継がれて来たものではないかと思います。

日本人の心を取り戻す

戦後、個人主義が強調される中で、そのような世界に誇る日本人の特質がやや薄れて来てはいますが、まだまだ無くなってはいないと思います。今こそ、神様を中心にして生きるという日本人の心をしっかりと取り戻すことが大切なことではないでしょうか。

聖書の続きを読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心として生きようとした人たちの記録であり、歴史的に見ても日本人の信仰と生き方のルーツではないかと思います。キリスト教という西欧の宗教の教典としてではなく、聖書から日本人の心を読み取っていただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 6章16~18節

断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

しかし、あなたが断食するときは、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

断食

健康のために断食をする人もいるようですが、ここで言われている「断食」は宗教的な断食であり、困難や苦しみの中で、神様に集中して祈るために、ユダヤ人は断食したようです。

人に見せるためなのか

本来、神様に思いを集中させるために断食して祈る訳ですが、断食をしているから、あの人は敬虔だとか、熱心な人だという人間的な評価というものがされるようになり、やがて神様に向かって断食しているのではなく、人に見せるために断食をするような人も出て来たのかもしれません。

宗教化の危険性

そのような断食にいったい何の意味があるのでしょうか。それは人間が中心であり、自分を満足させる自己中心に他ならないと思います。こうして、本来の神様への信仰というものが、人間中心の営みとなり、宗教化してしまうのではないでしょうか。

人の目から自分の心を守る

イエスはむしろ人に見られないように、人には分からないようにしなさいと教えました。私たち人間は皆、弱い者ですから、人の目を意識しない人はいないでしょう。だから人に見られないように、純粋に神様にだけ集中できるように、人に分からないようにするという知恵が必要なのではないでしょうか。

大切なことは神様を中心にすること

そうやって私たちの思いがただ神様にだけ向けられるようにすることは私たち自身を守ることになると思います。結局、どんなに宗教を熱心にやっていたとしても、たとえ人からあの人はとても敬虔な人だと言われたとしても、中心が神様でなくなれば、私たちの心は虚しく、生きる意味も分からなくなってしまうと思います。

ただ神様を中心として生きる。そこに本当の喜びがあると思っています。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いについて、多くの人にお伝えできるように、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様のお知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA