「キリスト教・宗教」無宗教という日本人の信仰

初詣手水舎
日本人の信仰「無宗教」

日本人は無宗教だと言う人が多いですが、それは信仰がないということを意味してはいないと思います。諸外国に比べてみても、日本人の方がはるかに宗教に対して熱心であり、強い信仰を持っているように見えます。「宗教」の問題点と日本人の「無宗教という信仰」の優れた点について、島田裕巳著「無宗教こそ日本人の信仰である」からご紹介いたします。

自己正当化のための宗教

極論すれば、宗教さえ存在しなければ、世界は平和だとも言える。宗教は、自分たちの教えを絶対化し、信仰対象を徹底して神聖なものとして祭り上げることで、他の宗教と相いれなくなり、対立を解決するどころか、むしろそれを強化している。そうした宗教の持つ排他性がなくならない限り、本当の意味で、世界平和は訪れない。

原理主義の問題点

原理主義者が理想として追い求める宗教のあり方は、純化されたもので、厳格な規律を求め、個人の宗教生活や生き方、あるいは社会秩序を宗教の原理によって強く拘束しようとする。そこには、高い倫理性が伴うこともあるが、厳格さの徹底した追及は、排外主義に結びつき、逸脱を許さない非寛容の状況を生み出していく。

こうした原理主義からは、現状を一気に打開するために過激な手段に訴える過激派が生まれ、宗教にもとづくテロを引き起こす方向に向かっていく。

無宗教の効用

グローバル化が進む世界では、異なる宗教を信仰する人間同士が、さまざまな形で関係を結び、ときには生活をともにしていかなければならない。すぐ隣りには、自分とは異なる宗教を信奉し、異なる原理に従って生活している人たちが存在するようになってきた。

その際に、お互いがそれぞれの宗教的な立場に固執し、その原理で押し通そうとすれば、軋轢が生まれ、対立が拡大していく。それは、社会に深刻な影響を与え、混乱と騒擾をもたらすことにもなりかねない。

それよりも、無宗教の方向にむかう方が、はるかに価値があるのではないだろうか。それは、すでに無宗教の国である日本社会において証明されている。日本では、宗教が人と人とを隔てる壁にならない。とくに、日本人と外国人とのあいだの障壁にはなっていかないのである。

日本人の信仰

無宗教は、宗教の否定ではない。信仰の否定でもない。それは、一つの宗教に固執し、ある信仰だけを絶対化して、他の宗教、他の立場を排除し、排斥することには結びつかない。無宗教は、宗教の自由を確保する。宗教についてあらゆる可能性を排除しないことで、かえって宗教の持つ将来の可能性を確保しようとする。(本からの抜粋引用は以上です。)

神様を中心とした生き方

この著者は「無宗教」と言っていますが、それは特定の、または既存の宗教の枠組みを持たないという意味であり、神様を中心にして生きるという信仰を持たない方が良いということではないと思います。確かに宗教は自己正当化の理由として使われる危険性があると思います。特定の宗教の教義ではなく、普遍の神様の意志に従う事によって全ての紛争や問題は解決されると私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の「無宗教」という信仰は聖書と深い関連があると思います。キリスト教の教典としてではなく、また特定の宗教ではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思います。

新約聖書 マタイの福音書 7章12節

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

昔から日本で言われて来た教え

これはイエスにつき従って来た群衆に語られたイエスの言葉の続きですが、確かに日本でも「人の嫌がることをするな」と昔から教えられて来たのではないでしょうか。

人としてどうあるべきか

人としてどうあるべきかということは洋の東西を問わず世界中で共通していることだと思いますが、世界を見渡してみると、このイエスの教えが浸透しているとは思えず、自己中心的な人が多いのではないでしょうか。またそれを当然とする文化も多いように思います。

日本人に引き継がれているイエスの教え

しかし、日本ではこのイエスの教えは家庭や教育の中に、キリスト教とは関係なく引き継がれて来たことを思わされます。確かに日本人の生き方の中にはイエスの教え、聖書の教えが引き継がれているのではないでしょうか。

積極的に善を行う

しかし、イエスは「人の嫌がることをするな」ではなく、「自分がしてもらいたいことを人にしなさい」と教えています。もっと積極的に善を行うようにと実は教えています。それは日本人としても正しいことであり、このように聖書を読むことはとても有益ではないでしょうか。

これが聖書の教え

「これが律法であり預言者です」とあります。それは旧約聖書にあるモーセの律法と預言者たちの記録を指しています。つまり、旧約聖書の教えは一言で言えば「自分がしてもらいたいことを人にしなさい」という教えだとイエスは言っているのだと思います。これは宗教ではありません。イエスは宗教を教えていないと私は思います。それは神様を中心にして生きるという日本人の心ではないでしょうか。

自己中心からの解放。神様を中心とした生き方。

自分だったらどうしてもらいたいか。いつもそのように考えて、そのように人にしてあげること。それが自己中心からの解放であり、神様を中心とした幸いな生き方だと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いについて、多くの人にお伝えできるように、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様のお知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA