「キリスト教・宗教」対立に利用される宗教

壁を作る

「宗教」とは本来、その信仰の内容や教えが中心になるものではないかと私たち日本人は思いますが、世界の情勢を見ると、それより対立に利用されるという面の方が強いのかもしれません。島田裕巳著「無宗教こそ日本人の宗教である」からご紹介いたします。

排他的で攻撃的になる「移民の宗教」

イスラム教国からの移民は、それぞれのヨーロッパ諸国において、低賃金の肉体労働に従事することになるが、各国では慢性的に失業率が高い状態が続いており、それは10パーセント近くにのぼっている。そのため、移民とそれぞれの国の失業者は、お互いに乏しい職を奪い合う形になり、対立する関係におかれる。失業者は、移民を敵視し、右派的な政党のなかには、移民の排斥を主張するようなところも出てくる。

宗教が結束の核となる

そうなると、移民の側も、結束して自分たちの地位や立場を確保しなければならない。その際に、宗教が、彼らを結束させる核となっていく。モスクは、移民たちが日常的に集う場であり、モスクの指導者のなかには、イスラム教の教えにもとづいて、移民の宗教的な結束を強く訴える者が出てくる。

もともとは強い信仰ではなかった

移民たちは、母国では必ずしも強い信仰を持ってはいなかった。母国では経済的な恩恵を被ることができなかったからこそ、そこを出てきたのであり、国民全体が同じ宗教を信仰している母国では、信仰による結束は意味をなさない。ところが、移民した国では、自分たちの生活を守るために信仰を深め、イスラム教に対する帰属意識を強めて、結束をはかっていかなければならない。

宗教対立のメカニズム

逆に、移民を受け入れた国の側でも、イスラム教に対抗する形で、キリスト教の保守的な勢力が力を得て、イスラム教を敵視するようになっていく。そうなると、そこに宗教上の対立が生まれ、両者は相容れないものになっていく。その根本的な原因は、もともとは職を求めた争いにあったのかもしれないが、お互いに宗教的な側面を強調するようになってくることで、事態はアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンの言う「文明の衝突」に発展していく。文明を異にするイスラム教とキリスト教のあいだに、対立と抗争が生まれていくのである。(本からの引用は以上です。)

本来は宗教の問題ではない

もともとは宗教的な対立ではなく、宗教が人々を結束させるための道具として利用されただけのことであって、信仰や生き方の問題ではないことが分かります。だからこそ大切なことは、対立や自己正当化のための宗教ではなく、そのような自己中心を退けて、神様を中心にして生きるということではないかと私は思います。今、人類は宗教を退けて、自己中心を放棄して、神様の前に一つになることを選ばなければならないのではないでしょうか。それが日本人の心ではないかと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は日本人の信仰にも深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるという日本人の心を知るためにも聖書をお読みください。

新約聖書 マタイの福音書 8章14~17節

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

病人のいやし

福音書にはイエスが病人をいやしたという出来事が数多く記されています。それが事実であるとすれば、それは医療行為というより、超自然的な出来事であり、神様の力がイエスを通して働いていたということだと私は思います。

生きて働く神様の力

それは、神様は単なる教えではなく、目には見えませんが、確かに生きて働いている力でもあるということを示す事実であり、日本人は太古の昔から、そのような神様の力を体験的に知っていたのではないかと思います。

メシヤ預言

預言者イザヤとは紀元前8世紀頃のユダヤの預言者で、旧約聖書の中にその預言書(イザヤ書)が残されています。その中の言葉がイエスによって成就したということを言っているのだと思います。それは病気をいやすこともまた、イエスが預言されたメシヤ、つまり神様から油注がれた特別に聖なる者だという証拠だと言っているのだと思います。私たちはイエスを通して、神様を良く知ることができるということだと思います。

いかがでしたか

私たち日本人にとって、神様は決して説明ではないと思います。神様について多くを語ることさえはばかられることではないかと思います。ただ神様の前に頭を垂れ、自己中心ではなく、神様の思いを中心にして歩みましょう。それが世界に平和をもたらす日本人の心だと思います。

パンフレットをお求めください

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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