【日本とイスラエル】小谷部全一郎の研究

盆踊り

古代日本にユダヤ人はやって来たのか。マーヴィン・トケイヤー著「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介しています。今日はアメリカのハワード大学、エール大学、また同大学院に学んで哲学博士の称号を得、帰国後は、東京皇典講究所、また国学院大学講師などとして働いた小谷部全一郎の研究をご紹介いたします。

日本及日本国民之起源

小谷部は1929年(昭和4年)に『日本及日本国民之起源』を出版し、日本の古来の様々な風習は、日本人と天皇家のルーツが古代イスラエル人であることを示している、と主張した。小谷部は、日本人の風習・習慣は、古代イスラエルのものとそっくりであることを、様々な例をあげて説明している。

古代イスラエル人の風習によく似た日本の風習

「正月行事のいわれ」「族長制度と長老を尊ぶこと」「挨拶のしかた」「清潔を好むこと」「禊ぎのこと」「禊ぎに水や塩を用いるもと」「履き物を脱ぐ風習と足を洗う風習」「盆踊りのこと」「結婚式のこと」「神社の構造」「石の柱のこと」「白い衣のこと」「屍にふれることを忌むこと」「お辞儀の風習」、そのほか数多くの例をあげ、これら日本人の風習が古代イスラエル人のものに非常によく似ていると説いている。

高天原

日本の神話では、大和民族の先祖は「高天原」(タカマガハラ、またはタカマノハラ)から来た、とされている。一般にこの「タカマノハラ」は天上界と理解されているが、小谷部は、これは天上界のことではなく西アジアの『タガーマ(地方)のハラン』のことであると解した(タガーマとは、ノアの曾孫トガルマの子孫が住んだ土地の古代地名である—創世記10:3、エゼキエル書38:6)これは現在のイラク北部からアルメニアのあたりである。古代には、そこに「ハラン」という場所があった。聖書にもハラン(カランともいう)は、イスラエル人の父祖アブラハムがしばらく住んでいた所として登場する(創世記12:4)。

もともと一つの民族なのか

小谷部は日本人の先祖はそこからやって来たと考えていた。イスラエル人と日本人はもともと一つの民族であったと確信している、と彼は述べた。彼はまた、日本に来たイスラエルの失われた部族は二つ—ガド属とマナセ族であったろうと書いている。彼らは東に進み、イスラエルの聖なる宝を携えて、日本にやって来たという。天皇を呼ぶ呼称「ミカド」(帝、御門)は、ガド族出身を意味するヘブル語ミガドから来たに違いない、とも彼は書いている。(本からの引用は以上です。)

日本人の起源は単一民族ではないが

私は、日本人の民族的起源は単一ではなく、日本人の全てがユダヤ人だったとする日ユ同祖論には懐疑的ですが、古代日本に多くのユダヤ系渡来人があり、日本人と日本文化に大きな影響を与えたことは間違いないだろうと考えています。小谷部氏が指摘するように、古事記、日本書紀の天孫降臨の出来事がユダヤ系渡来人のことを指している可能性は高いと思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人にも深い関係があると思っています。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 18章1~10節

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまづきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

神様を中心にして生きる世界では誰が一番偉いのか

人は神様を中心にして生きる世界においても誰が一番かと考える者なのでしょうか。そのような考え方自体が神様を中心にしていないように思いますが、イエスはまず悔い改めて子どものようにならなければ天の御国に入れないと言いました。子どもが大人に従うように、誰でも自己中心を退けて、神様を中心にしなければ、誰が一番かと言う前に、神様を中心とした生き方自体ができないということではないでしょうか。だから誰が一番かということであれば、自分を低くする者だとイエスは教えたのではないでしょうか。

神様を中心にすることの重要性

人間中心の価値観で人も自分も判断しないように注意が必要だと思います。神様中心に見るなら、どれだけ遜って神様を中心にしているのかということが大切ではないでしょうか。手足を切って、目をえぐり出して捨てた方が良いとまでイエスは言っています。それほど神様を中心にして生きることが重要だという意識があるでしょうか。私たちはまだまだ分かっていないのかもしれません。いつも自己中心を退けて、人間中心の価値観を退けて、神様を中心にすることの重要性えたいと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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