元クリスチャン(プロテスタント)のドイツ人で、現在は曹洞宗の住職をされているネルケ無方氏の著書「日本人に『宗教』は要らない」の中に「日本人はなぜキリスト教を信じないのか」という興味深い文章がありましたので、ご紹介してご一緒に考えてみたいと思います。
日本の「天皇」とキリスト教の「法王」
キリスト教は、日本では昔も今もあまり普及していない。それはなぜか。その理由を本章で考えてみたい。まず言えることは、日本人にキリスト教は必要ではなかったことだ。なぜなら、キリスト教以上のものを、日本人はすでに持っていたからである。それは、「天皇」である。
日本の世俗的皇帝
エンゲルベルト・ケンペルという17世紀の終わりに日本に渡ったドイツ人の医師がいる。(中略)約2年長崎の出島に滞在した。その間、2回も江戸まで参府し、徳川将軍に会ったことがあるという。その経験を記した『日本誌』の中では、彼は将軍を「日本の世俗的皇帝」と呼んでいる。
日本の宗教的皇帝
当時のヨーロッパにも、国王や皇帝はたくさんいた。しかし、日本には「もうひとりの皇帝」がいることに、ケンペルは驚いた。「宗教的世襲皇帝の王朝は、キリスト以前の660年がそのはじまりである。この年からキリスト紀元1693年にいたる期間、すべて同じ一族に属する114人の皇帝たちが相次いで、日本の帝位についた。彼らは、日本国の最も神聖な創設者である〝テンショウダイシン〟(天照大神)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている」(エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』)
「天皇」と「法王」
ヨーロッパでこの「宗教的皇帝」に一番近いのは、バチカンの「法王」(「教皇」とも言う)だろう。過去にはその政治的な権力も強かったようだが、いまでも法王は多くの人の精神的な支えとなっている。(本からの引用は以上です。)
「日本人はなぜキリスト教を信じないのか」
その第一番目の理由として、日本には天皇がいるので、キリスト教を必要としていないということをネルケ氏は挙げています。この理由は私個人としては今一つピンと来ないのですが、読者の皆さんの中にはネルケ氏に共感される方も多くいらしゃいますでしょうか。
私が思うところ
私がクリスチャンとして、また元キリスト教の牧師として感じるのは、キリスト教はイエスの教えの内容、または聖書の教えを伝えるというよりも、キリスト教に改宗させようという印象が強いからではないかと思いますが、いかがでしょうか。日本人はある特定の宗教の信者になることには抵抗がありますが、禅の教えや仏教の教えにはある程度関心があると思いますし、イエスはどんなことを教えたのかということにも関心を持っているのではないかと私は思います。
キリスト教を伝えるのではなく
私はキリスト教を伝えることではなく、イエスの教えを伝えて、それを実際の生活に役立てられるようにすることにもっと取り組むべきではないかと思っています。それはクリスチャンとして、また元キリスト教の牧師としての私の使命でもあると感じています。読者の皆様はどう思いますでしょうか。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心に生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、実は私たち日本人の生き方にも深く影響を与えていると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きる日本人として聖書を読んでいただきたいと思っています。
新約聖書 マタイの福音書 18章15~20節
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
「罪」とは
2つのことを考えてみたいと思います。1つは「罪を犯す」ということ。もし、法的な犯罪のことであれば、仲間内で解決すれば良いということではない思います。では、倫理的、道徳的な罪のことを言っているのでしょうか。また、ギリシヤ語の「罪」とは、的外れ、中心がずれているという意味なので、神様を中心としないで、自分を中心としているということを言っているのかもしれません。その人の幸せのために、愛をもって指摘してあげることが大切だということではないでしょうか。
「教会」とは
もう1つは「教会」とは何かということ。当時、キリスト教はまだありませんでしたので、それはキリスト教会のことではないと思います。ユダヤ人はそれぞれ教会のような地域的なグループ、日本で言えば町内会のようなものがあって、それを教会と言っているのかもしれません。
日本の町内会
いずれにしても、中心がずれてしまった人を、もう一度神様中心の幸いな生活ができるように、互いに助け合う互助活動が命じられているのかもしれません。それは日本人にはよく分かることではないでしょうか。本来、日本の町内会にもこういう目的があったのではないでしょうか。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。