【キリスト教・宗教】クリスチャンは仏壇を拝んでも良いのか(2)

仏壇

前回、仏壇に線香をあげて祈ること、仏式の葬儀で焼香することは偶像礼拝にはあたらないこと、それは日本人の生活に悪をもたらしていないことについて書きました。それでも、それらに抵抗を感じるクリスチャンがいるとしたら、それはキリスト教の風習ではないというのが理由ではないかということを指摘しました。

それは日本の風習

それでは、クリスチャンはそのような行為をしても良いのでしょうか。してはいけないのでしょうか。それは日本の風習であって、その風習や形式そのものが重要な訳ではありませんので、もし、自分のことだけを考えるのであれば、しても良いし、しなくても良いだろうと私は思います。

日本宣教という視点

しかし、日本宣教という視点から言えばどうでしょうか。多くの日本人が大切だと考えている風習を尊重しないとすれば、日本人にどういうメッセージを送ることになるのでしょうか。日本文化の中でそのような人は信仰を貫いているということで、尊敬されるのでしょうか。むしろ日本人的な寛容をもって、あの人はキリスト教徒だから仕方がないと受け止めてくれるかもしれませんが、家族、親族であれば、そうもいかないというのが現実ではないでしょうか。また、たとえ聖書の教え、イエスの教えに共感してくれる人がいたとしても、クリスチャンにはならない方が良いと思うかもしれません。

信仰の本質に関わる問題

仏壇、焼香という形を頑なに拒否することによって、大切な家族、親族を聖書の福音から遠ざけ、その人自身も不必要な戦いを背負うことになるかもしれません。しかし、もっと重大なことは、これは信仰の本質に関わる問題ではないかということです。本当は何が大切なのでしょうか。線香をあげる、あげないという風習、形が重要なのでしょうか。それとも自己中心を退けて、神様を中心にして生きるという生き方が重要なのでしょうか。キリスト教の風習を伝えることが大切なのでしょうか。それとも神様を中心にして生きるという生き方を伝えることが大切なのでしょうか。

日本文化から学ぶこと

日本文化は世界的にも高く評価されており、それはキリスト教国と呼ばれる国よりも概して高い倫理性を備えていると思います。もちろんキリスト教の風習にも聖書の教え、イエスの教えが幾分かは引き継がれていると思いますが、日本の風習の中には西欧キリスト教の文化には引き継がれていない重要なことが引き継がれているのではないでしょうか。そのことについてはまた別の機会に触れたいと思います。いずれにしても、クリスチャンは仏壇に線香をあげて良いのでしょうか。それともあげてはいけないのでしょうか。それともあげるべきなのでしょうか。それぞれ考えていただければと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエルの人々の記録であり、日本人の信仰、習慣、文化のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 7章1~23節

さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。

もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、

『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』。

あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言(ことば)を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。

イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬(たとえ)について尋ねた。すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。

さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り(そしり)、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

イエスの教え

ここでパリサイ人、律法学者が言っているのは、衛星のために手を洗うことではなく、宗教上、清めのために手を洗うことを言っています。もちろん、その宗教的な風習そのものが悪だということではないでしょう。その風習にこだわって、本質を見失うことが問題だとイエスは指摘しているのだと思います。

本質を見抜け

悪は人間の中から、人間中心、自己中心から出て来る。これこそが問題の核だとイエスは教えているのだと思います。神様を中心にして生きること。日本人の風習もまた、その本質を見落としてはならないと思います。枯れた骨がよみがえる時が近づいているのではないかと感じます。

いかがでしたか

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本書の目次

一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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