【日本人と日本文化】現金の「落とし物」をポケットに入れない国

札束の落とし物

「日本人は一人ひとりが、不思議なモラルと見識をもっています。そうした一人ひとりの、いわばミクロのモラル力が、日本人全体のマクロのモラルを創造しているのかもしれません」と語るのは日本在住24年(執筆当時)、ハワイ出身のアメリカ人ルース・ジャーマン・白石さん。彼女の著書「日本人が世界に誇れる33のこと」から紹介します。

48億円の現金返却

3・11関連ニュースで世界的に波紋が広がったのが、48億円の現金返却でした。被災地の瓦礫から見つかった現金や金庫が、次々と役所に届けられたというのです。日本人がもつモラルの高さと美意識を改めて世界に広めました。海外の人々は、驚きをもってそのニュースを受け止めたに違いありません。

「落とし物」の張り紙

日本人にとっては当たり前のことでも、世界の人々が心から驚いてしまうようなミクロなモラル力の典型例が、わたしの勤務先ビルで起こったことがあります。ある日、事務所がある二階のエレベーターホールの壁に「落とし物」の張り紙がありました。

日本の誇るべきモラル力

そういう「落とし物」の張り紙には、たいてい傘とかハンカチなど、何が落ちていたのか書いてあるのですが、今回はなんと「現金」です。これこそ、日本の誇るべきモラル力の表れでしょう。

海外ではあり得ません

誰かが床に落ちている現金に気づきました。周囲には、監視カメラもなく、人影もありません。それでもその人は、そっと自分のポケットにお金を入れてしまうことなく、管理人事務所に届けたのです。海外ではあり得ません。どう考えても、このような行為は日本特有のことといえます。

どういうことなのだろう?

お金にあふれるバブル期ではありません。不景気で、多くの人がお金に困っている今だからこそ、なおさらこのモラルには驚いてしまいます。これはどういうことなのだろう?と考えてしまいます。

状況がむずかしい時こそ

日本人は、状況がむずかしくなればなるほど、共存と共有の意識を強めるというのでしょうか。コミュニティーが実現するのは、好況のときではなく、不況のときなのでしょうか?多くの国では、厳しい状況のなかでは当然のように個人行動をとりますが、その逆だというのでしょうか。

この特別なメンタリティー

このメンタリティーの根拠を学び、厳しい状況にある自分の母国でも参考にできればいいと思います。だからわたしは、この特別なメンタリティー(精神性)を吸収し、日本人と同化できる人間になりたいのです。(本からの引用は以上です。)

「絆」

確かに日本人は東日本大震災のような困難の中で、いつにも増して助け合いの心が発揮されたように思います。「絆」の大切さをよく耳にしましたが、それは「絆」が失われているから、今こそ「絆」を大事にしようということではなく、こういう時だから、日頃は意識していない「絆」の大切さが身に染みたということだったと思います。

神様を中心にして生きる

ルースさんは「このメンタリティーの根拠」を学びたいと言っていますが、それは自己中心を退けて、神様を中心にして生きるという日本人の心だと思います。しかしながら、日本人でも自己中心に流される危険性が強まっている時代だと思います。意識して神様に思いを向けることが大切だと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。日本人の心は古代日本にあったイスラエル系渡来人に遡ることができると思います。聖書は日本人の心のふるさとなのです。聖書とイエスの心は日本人の心の中にこそ継承されていると思います。キリスト教とは切り離して、日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 14章17~26節

夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。

弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

過越の食事

イエスと十二人の弟子たちとは用意された部屋へ行き、そこで過越の食事を始めました。イエスはイスカリオテのユダに聞こえるように「わたしを裏切ろうとしている者がいる」と警告したのではないでしょうか。ユダは良心に語られる神様の声を聞き、それに従うべきだったと思います。「その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」とイエスは言いました。

過越のパン、ぶどう酒の杯

過越のパンをさき、このようにわたしのからだがさかれること、またぶどう酒の杯を取り、このようにわたしの血が流されるとイエスは言いました。それは契約の血だとも言いました。イエスの十字架の死は、神様の前に多くの人の罪が赦され、神様を中心にして生きることができるようになるための犠牲であったということだと思います。

最後の食事

イエスは、神の国で新しく飲むその日までは、二度と過越のぶどう酒を飲むことはない、つまり、これが地上で最後の過越の食事だと言ったのだと思います。一同は神様をたたえる歌を歌い、オリブ山へ出かけて行きました。イエスの十字架はもうそこまで迫っていました。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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