【日本とイスラエル】日本語の由来(3)

漢字

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

漢字

紀元5世紀に日本には「漢字」という、中国古代王朝の名前で呼ばれる文字が入ってきて、日本人はこれを自分たちの言語に適応させてきた。漢字は、絵画的な記号の組み合わせで作られる文字で、214の語源グループに分類される。漢字のそれぞれの文字は音ではなく、単語の意味を基礎として、上から下に向けて縦に書き、行は右から左に進んでいく。

音を表す文字として取り入れる

日本人はこの漢字を、文字の意味と関係なく、日本語の音を書き表すための文字として取り入れた。やがて再び古代ヘブライ文字が取り入れられるのであるが、その時に中国語の影響を受けて上から下に、縦向きに書かれるようになった。

ヒエログリフの影響

さらに、ヨセフ族が精通していたエジプトのヒエログリフの影響により、右から左、左から右のどちらに向けても、読み書きができるようになった。彼らの子孫は、ヒエログリフそのものは忘れていたが、その文字が左から右に向けても読むことができることは、記憶していたのである。そしてある時代に、ヘブライ文字は間違って左から右に向けて読まれることになり、その単語の意味が混乱してしまうのである。

ヘブライ語の変化

日本人が中国語の発音に変更を加えたように、またヘブライ語の「する」という動詞の使い方も次のように変化した。ヘブライ語で「する」は「アサー」と言う(「あなたは~をした」は、「アスィータ」)。日本語では「火傷・した」と言うが、ヘブライ語で「イェケッド」は「燃焼、炎」を意味する。また「眠り・ました」の「ネム」はヘブライ語で「眠る、まどろむ」という意味、また「言い・ました」と言うが、アラム語で「言う」は「エイマー」である。

日本語の起源

17~18世紀、日本のある学者グループの中に民族意識の目覚めが起った。彼らの中に日本語の起源を知りたいという願望が高まり、研究を始めた。しかしいざ古文書を紐解き始めると、彼らは日本語の中に、その内容も起源も意味も分からない単語や言葉があまりに多いことに驚いた。それもそのはずである。私の考えではそれらの言葉は、訛ったヘブライ語だったのである。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 ヨハネによる福音書 2章1~11節

三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。

ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。

そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。

そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

婦人よ

イエスと母マリヤは新郎新婦とどのような関係にあったのか分かりませんが、母マリヤはぶどう酒がなくなったとイエスに言いました。単に事実を伝えたのか、何とかして欲しいという意味なのか分かりませんが、イエスは「そうですね」とは言わずに、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。」と言ったと記されています。どういうことなのでしょうか。母と息子ではないのでしょうか。イエスは単にマリヤの息子ではなく、メシヤとしての自覚を持っていたということなのかもしれません。マリヤもまたイエスを「このかた」と言っています。

最初のしるし

ここには水が最高のぶどう酒になったことが記されています。事実の記録だとすれば、これは明らかに超自然的な出来事であり、イエスが普通の人ではないことを示していると思います。「その栄光」とは、単なる人ではなく、神から特別な権威が与えられたメシヤとしての栄光という意味ではないでしょうか。弟子たちはイエスを信じたとあります。メシヤとして信じたとか、クリスチャンになったということではなく、イエスを師として受け入れたということではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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