【日本とイスラエル】マー・カラー・コトバ(枕詞)

書籍「失われた十部族の足跡」

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

ヘブライ語的な響きを持った名前

景行天皇の家系や彼の息子らの英雄伝に登場する天皇家を取りまく人々の中には、ヘブライ語的な響きを持った名前の人たちが非常に多いのに驚かされる。聖書と同じように、そこに登場する名前の多くには、その人物の性格、英雄的働き、生まれた時の状況など、何らかの意味が暗示され、秘匿されている。

消えつつある伝承

ヘブライ語の名前と単語がどれほど豊かに残されているか。古事記に登場する他の天皇についても同様のことが言える。民族の伝承がだんだんと失われ、古代の王たちの記憶も消えつつあり、イスラエル十部族の賢者たちは、神々や天皇の名前の中に、消えつつある伝承を組み入れていったのであろう。

マー・クラー・コトバ

そのため、時に名前の長さが二十音節にも及ぶことがある。人物の物語を、このように長い肩書を付けることによって記憶する方法を、日本人は「マー・クラー・コトバ(枕詞)」と呼ぶ。ヘブライ語で「マー・カラー・ケタヴォ」は、「彼は、何が起きたのかを、そこに書き留めた」という意味になる。

長くて奇妙な名前

古事記に登場する神の名を一つ紹介しよう。「マサ・カツ・アクツ・カチ・パヤ・ピア・アメ・ノ・オシ・ポ・ミミ・ノ・ミコト」 驚いたことに、日本の研究者たちは、これらの長くて奇妙な名前に何らの意味を見出すことができなかった。想像してみてほしい。この神の母親と妻とが、もし溺れかかって、彼に助けを呼ぶときに、いったいどういうことになるのだろう・・・。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 マタイによる福音書 20章1~16節

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。

それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。

主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい』。

そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。

もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。

そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

あとの者は先になり、先の者はあとになる

富んでいる者が天国に入るのはむずかしいとイエスが教えると、ペテロは「いっさいを捨てて、あなたに従いました。何がいただけるでしょうか」と言いました。その時、イエスは「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」と言い、続けて語ったのが今日のたとえ話です。イエスは何を教えたのでしょうか。

神に不平をもらす者

確かに朝から働いた者たちは、一日一デナリという約束で働きました。主人に不正は何もありません。主人は最後の者にも同じようにしてやりたい、自分の物を自分がしたいようにするのは当たりまえではないかと言っていますが、その通りでしょう。結局、朝から働いた者たちは、自分がいただいた物に感謝しないで、ねたみました。このように先だったのに、あとになってしまうと教えたのではないでしょうか。

神を中心にする

だから人を見て、ねたむ人生は止めましょう。それはいただいている祝福から目が奪われてしまうことになるのではないでしょうか。幸せは他人との比較ではありません。神からいただいている物に感謝して生きることではないでしょうか。人間中心、自己中心を退けて、神に目を留めて生きる。そこに揺るぎない幸せな人生をおくる秘訣があります。

いかがでしたか

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10月17日(水)タピ大決定!

「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」シリーズの5回目になりました。今回は「古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅~剣山・ソロモンの秘宝」と題して、この8月6日~16日の旅行のレポートをさせていただきます。お近くの方はぜひお出かけください。タピ大については、こちらのサイトをご覧ください。

新刊「日本人の幸せ」(電子版100円)をお買い求めください!

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

詳しくは書籍情報をご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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