【日本とイスラエル】名前のヘブライ語的解釈

書籍「失われた十部族の足跡」

日本とイスラエルに関連する事柄について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。

スイニン

垂仁天皇の「スイニン」という音をヘブライ語で解釈すると「ゼ・ヤニン」、つまり「これは曾孫」という意味になる。その意図するところは、「これは曾孫であり、存続する」であろう。「ニン」とは四代目の子孫を意味するが、四代目を見ることによって、人は子孫の永続を感じることができるのである。

ヒバスヒメノミコト

垂仁天皇の皇后の一人は日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)である。「ヒバ・ゾ」はヘブライ語で「彼女は愛である」という意味になる。この高貴な皇后の名前には日本民族の古い埋葬の文化に重要な影響を与えたある物語が関係している。

当時の埋葬の習慣

日本書紀によれば、君主が亡くなった場合、近親者は主人と一緒に生きたまま埋葬されるのが当時の習慣であった。日葉酢媛命が亡くなり、葬りの日が近づいた時、天皇は臣下らに「現在の葬りの方法は良くないことはわかった。皇后をどのような方法で葬ったらよいだろうか」と尋ねた。

ノミノスクネ

その時に野見宿祢(ノミノスクネ)が立ち上がって、「君主の陵墓に生きた者たちを埋めるのは良くありません。どうか私に新しい方法を提案させてください」と答えた。彼は天皇の許しをいただくとすぐに出雲の国から陶器の職人百人を集めた。

イズモ

「イズモ」という名前は「ヤッド・ズ・モー」、ヘブライ語で「何という手か!」「何と美しい像を作る手か!」という意味に解釈できる。彼らは粘土で人、馬、その他さまざまな形のものを作って天皇に献上、天皇は「今後は生きた人々の代わりに、これらの粘土の像(埴輪)を陵墓に建てるきまりとする」と宣言した。

埴輪

天皇は野見宿祢の功績をとても喜ばれ、彼を陶器職の長に任命された。こうして日葉酢媛命の墓には陶器の像が立てられ、君主の近親者が君主と共に生きたまま葬られるという習慣はなくなった。こうして日葉酢媛命の死去と共に、埴輪(ハニ・バー、ヘブライ語で「私の麗しさは彼女にある」という意味になる)と呼ばれる埋葬の習慣が生まれたのである。

ヒバ・ゾ

日葉酢媛命は寺間(テ・ラマー)に葬られるが、「テ・ラマー」のヘブライ・アラム語的な意味は「貴女は高き所に来る」である。彼女のおかげで生きた人間を主人と一緒に葬るという残酷な悪習がなくなったため、彼女は日本民族に愛すべき女性として記憶され、「ヒバ・ゾ(彼女は愛である)」という名前で呼ばれたのかどうかは神のみぞ知る。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 マタイによる福音書 20章17~28節

さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。

そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国(みくに)で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。

イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左ににすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。

十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

ひとりは右に、ひとりは左に

イエスはエルサレムで十字架にかけられて死に、三日目によみがえることについて語りました。弟子たちはイエスのことばをどのように理解したのでしょうか。エルサレムでイエスは王となると考えたのかもしれません。その時には右と左にすわれるようにして欲しいと願ったとあります。

仕える人となる

ここでイエスが教えたのは、人の上に立つとは、自分のために権力を振るうことではなく、人々に仕えることだと教えました。イエス自身、人々の救いのために命を捨てると言っています。それが神を中心とした生き方であり、永遠の命だということでしょう。人々に仕えてもらいたいという生き方は滅びへの道であり、人々に仕える道こそが永遠の命であることを日本人は太古の昔から知っていたのだと思います。その日本人の心を今こそ取り戻し、人としての尊厳を全世界に示そうではありませんか。これこそが神が意図された、本来の人間の姿です。

いかがでしたか

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10月17日(水)タピ大決定!

「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」シリーズの5回目になりました。今回は「古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅~剣山・ソロモンの秘宝」と題して、この8月6日~16日の旅行のレポートをさせていただきます。お近くの方はぜひお出かけください。タピ大については、こちらのサイトをご覧ください。

新刊「日本人の幸せ」(電子版100円)をお買い求めください!

Amazonから「日本人の幸せ—古代ユダヤ人がもたらしたイエスの教え」(196ページ)が販売されました。一人でも多くの方に読んでいただけるように、電子版の価格を100円といたしました。(文庫版も好評発売中。詳しくはAmazonのサイトでご確認ください。)これを記念して既刊の「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」も電子版の価格を100円にしました。ぜひお読みください。レビューのご協力もよろしくお願いします。

 

目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

詳しくは書籍情報をご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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