日本とイスラエルに関連する内容について、アビグドール・シャハン著「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡~イスラエルの地から日本まで」からご紹介いたします。
那智の火祭り
和歌山で毎年七月十四日に行われる古い祭りに「那智の火祭り」がある。この祭りでは、天皇軍を象徴する十二のお神輿が、大きな軍隊と戦う。この模擬戦争は約三時間続き、最後には天皇軍が王国を滅ぼそうとする大きな軍隊に勝利する。この激しい戦闘の後、勝利した戦士たちは多くの松明を担ぐ人々に伴われて、丘の上に建つ那智の大神殿(那智大社)に帰って来る。
イスラエル十二部族
この祭りは神道信者たちの遠い昔の歴史にその起源を持つ。十二人の勇敢な戦士たちは、一人の王の指揮下で共通の敵と戦っていた時代の十二部族を表している。では、イスラエル民族がまだ分裂する以前、王国を危機に陥れた十二部族共通の敵とは一体だれであろうか。エジプトのパロか、アマレクか、その答えは神のみぞ知る。
塩
神道の祭司たちは塩を撒いて、汚れた場所を清める。また日本の国技である相撲でも、土俵に上がる時に、塩を撒いて穢れの力を祓う。モーセの宗教でも、塩は祭儀で大切な役割を果たす。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」という記述がある。
剃りの禁止
聖書には「また、頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落したり、身を傷つけたりしてはならない」とある。日本の古い伝承でも、頭髪や顎鬚を剃ることは、常に不名誉なこととして描かれる。さらには、古代日本人が長い髪の毛を頭の左右で編んでいた髪型は、ユダヤ人の「ペオット」と呼ばれる髪の毛の形にそっくりである。
去勢
イスラエルの宗教と同様、神道でも去勢など体の一部を不能にする習慣を持たなかった。どちらの宗教も、それは人間の自然な美しさと完全性とを傷つけることで、神の創造の業を冒涜する行為であると考えた。
卑しめを拒絶
イスラエルの王たちはたくさんの妻を持っていたが、去勢された宦官が彼らに仕えることはなかった。また日本では、隣国の中国では去勢が当たり前であり、また中国文化は日本に多大な影響を与えていたにも関わらず、またイスラエルの王たち同様、日本の天皇も多くの妻を娶り、また宮殿そばに妾を持っていたにも関わらず、十部族の子孫たちは一切の肉体的、精神的な卑しめを拒絶したのである。
暦
日本古来の暦もユダヤ暦同様、太陰暦である。満月が月の真ん中であり、一月は二十九日~三十日、数年に一度うるう年として十三ヶ月ある。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章8~17節
ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしを見たものは、父を見たのである
父とは神のことでしょう。イエスは父とともにいるということを信じないのか、つまり受け入れないのかと言っています。イエスの教えは、神の教えであり、真理であると言っているのでしょう。イエスは神に立ち帰るようにと教えました。このイエスの教えに従うことは、神に従うことに他ならないということでしょう。
イエスのわざを行う
イエスの教えに従い、神に立ち帰って生きる者は、イエスのわざを行うことになる。それ以上のことを行うことになるとイエスは教えました。どういうことでしょうか。確かにイエスの教えは、日本人全体の国民性にまでなっていることを思うと、イエス以上のわざと言えるのかもしれません。
わたしの名によって願う
それは利己的な、自己中心的な願いのことではないでしょう。神の御心を求めること。それがイエスの名によって願うことの意味ではないでしょうか。それは必ずかなえられるとイエスは教えました。
真理の御霊
それは神の霊のことでしょう。神の御心を求めるなら、神の霊が与えられる。しかし、神の御心を求めず、自己中心に生きるなら、神の霊を受けることはできないでしょう。自己中心、人間中心を退け、神に立ち帰り、神の御心を求めて生きる者には神の霊が与えられる。それが人の生きる道ではないでしょうか。
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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