日本神道と古代イスラエル神道の共通点について、久保有政氏の解説から一部をご紹介いたします。
死者の穢れの観念
日本では、お葬式に参加すると、参列者に「お清め塩」が配られる。参列者は、自分の家に帰ったとき、玄関前でそのお清め塩を頭に振りかけてもらわなければならない(塩祓い)。そうやって身を清めてからでないと、家に入れてもらえない。お清め塩は、仏教式の葬儀でも使われるが、これは神道の風習を真似たものである。だから仏教宗派によっては、死は穢れではないとして、葬儀後の清めの塩を使わないところもある。・・・古代イスラエルでも、葬式に参加した人や、死体に触れた人は、決められた方法で清め、禊ぎをしなければならなかった。
神社で葬儀は行わない
仏教の葬儀は寺の中で行われるが、神道式の葬儀は、神社では決して行わない。神社以外の場所で行われる。穢れを神社内に持ち込まないためだ。古代イスラエルでも、神殿で葬儀をすることは決してなかった。死は穢れだからである。今日もユダヤ人は、お墓を自分の家の近くには造らず、ある程度離れた所につくる。穢れを遠ざけるためである。日本でも、葬儀に参加した神社の神官は、葬儀に用いたものを境内に持ち込まない。たとえ持ち込む場合でも、必ず禊ぎをして清めてから持ち込む。自分自身をも清めなければならない。これも古代ユダヤ教の風習と同じだ。
忌みの期間
こうした日本神道の死者の穢れの考え方は、古代イスラエルにあったものと全く同じなのだ。「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる。」(旧約聖書民数記19章11節)日本神道でも同様に、家族に死人が出たとき、一定期間「汚れている」とみなされている。この期間、人は神社に参拝することもできない。古代イスラエルでも、汚れの期間にある人は神殿に来ることをゆるされなかった。聖書には、古代イスラエル人はモーセとアロンの死の際に、「30日間」泣き悲しみ、喪に服したと記されている(旧約聖書申命記34章8節、民数記20章29節)。一方、10世紀に日本で作られた「延喜式」によると、汚れに触れて神事にたずさわってはいけない忌みの日数を、人の死ならば「30日」と定めている。興味深い一致だ。
動物犠牲がない
イスラエルの幕屋や神殿には、動物をいけにえとして捧げる動物犠牲の祭壇があった。だが日本の神社にはない。・・・これは古代イスラエル宗教と日本の神社との決定的な違いである。しかし、この違いも聖書にちゃんと理由が書かれている。・・・「全焼のいけにえを、勝手気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主が、あなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげなければならない。」(旧約聖書申命記12章13,14節)このように動物犠牲はどこでおこなってもよいというものではなかった。・・・この命令に従い、今日も世界に離散しているユダヤ人は、動物犠牲を行わない。動物犠牲をエルサレム神殿以外の場所ですることは、許されないことだからである。つまり、イスラエル以外の土地で動物犠牲を行わないことは、むしろ正統的なことといえる。日本の神社に一般的に動物犠牲の風習がなかったのは、そのためであろう。中国や東南アジアには、動物をいけにえとして捧げる宗教が数多くある。世界的に見ると、動物犠牲をささげない宗教の方がむしろ珍しい。この点でも、日本神道とユダヤ教、古代イスラエル神道は共通しているといっていい。(久保有政氏の解説からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、習慣、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 8章1~5節
神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。また淵の源と、天の窓とは閉ざされて、天から雨が降らなくなった。それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。
七月十七日
ここには水が引いて、箱舟がアララテ山にとどまった日が七月十七日だったと日付が記されています。そして、水が減って、山々の頂が現れたのは十月一日だったと日付が記されています。この日付が記念日として、先祖代々伝承されていたということなのかもしれません。それは人類の新たな出発の日であり、新しい歴史の始まりの日として、大切に伝承されていたのかもしれません。京都の祇園祭の始まりが七月十七日であることと関係があると言う人もいます。この記念日が日本に渡来した人々によって伝承され、日本でもお祭りとして祝われたということなのかもしれません。
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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神道には教義がなく、本来建物としての神社すらなかったはず。そのような存在である神道の、現在執り行われている儀式は、いつどのようにして整えられてきたのか、それを理解することが、仰るような類似点に着目する前提として必要なのではないだろうか。
それなくして現代・今時点における風習とユダヤとの共通点に着目しても納得感が得られにくい。このように考えることについての見解を頂ければ有難い。
関和義様、ご質問をありがとうございます。ご質問を久保有政氏にお送りしたところ、次のようなお返事をいただきました。「現在のような神道儀式等は、もともと古代の古神道に発し(古代イスラエル人由来と思われる)、その後3~4世紀に秦氏が渡来して(古代イスラエル人のキリスト教徒)各地に神社をつくり、そうした中で整えられて行ったものです。もともと教義がないことはなかったと思われますが、教典を持たなかったため、しだいに伝統のみになったと思われます。」私も質問の内容について少し調べてみましたので、近いうちにブログに書きたいと思います。いずれにしましても、自分の中にある疑問について納得ゆくまで調べることは大切なことだと思います。私自身も自分の中にある疑問について調べるうちにだんだんと自分なりの納得、確信を持つようになりました。先行研究、書籍、インターネットの情報もありますので、調べることが大切だと私は思います。知らないということで、間違った判断をしたくないと思います。ご質問は私自身も調べてみるきっかけとなりました。また、ご質問がありましたらお寄せください。ありがとうございました。