【日本とイスラエル】神社と幕屋の類似(3)高き所

御幣と鏡

日本と古代イスラエル人との関連について、久保有政氏のYouTube動画解説「神道のルーツとユダヤ2」からご紹介いたします。

高い山の上(前回の続き)

日本の神社はまた、たいてい山の上や、小高い丘の上に建てられる。日本には、高い山の上には必ずといっていいほど神社がある。富士山頂にだって神社がある。古代イスラエルにおいても、高い山の上には必ず「高き所」と呼ばれる礼拝所が設けられていた。聖書には何度も「高き所」が出てくる。日本の神社がたいてい高い所に建てられているのをみると、私(久保有政氏)はそれは「高き所」なのだと思う。エルサレム神殿も、モリヤ山上に建てられた。また、モーセはシナイ山上で「十戒」を授けられた。このようにイスラエルにおいても山は神に近い場所と考えられた。

東向き、南向き

日本の神社はほとんど、東向き、あるいは南向きに建てられている。東向きの場合(たとえば松尾大社その他)は、鳥居が東側に、本殿が西側にある。これは東から日が昇るからである。古代イスラエルの幕屋や神殿は、東向きだった。これは神の栄光が東のほうから現れるという信仰に基づく。

至聖所のご神体

古代イスラエルの幕屋、また神殿の至聖所――つまり最も奥の聖なる場所には、契約の箱が安置されていた。日本でいうお神輿である。契約の箱の中にはイスラエルの「三種の神器」--十戒の石の板、マナの壺、アロンの杖が入っていた。

十戒の石の板

「十戒の石の板」は、シナイ山でモーセに与えられた十戒を記した石板である。神ご自身の指で刻まれた、といわれる聖なるもので、2枚の石板に5つずつ戒めが書かれていた。

マナの壺

「マナの壺」は、荒野放浪時代のイスラエル民族のために天から与えられた特別な食物「マナ」を入れた金の壺である。

アロンの杖

そして「アロンの杖」とは、大祭司アロンの持っていた木製の杖である。アロンが神に選ばれた者であるしるしとして、一夜にしてそこからアーモンドの芽が吹き出て、花が咲いたといわれる杖だ。これらがイスラエルの「三種の神器」であった。

偶像ではない

しかしこれらは偶像ではなかった。つまり、人々はそれらを神として拝むことはなかったのだ。それらの神器は、そこが目に見えない神の降臨する神聖な場であることを示すために置かれていた。

神社も同様

同様に、日本の神社の本殿にも、偶像は置かれていない。本殿の中には、鏡や、御幣、石、剣などが置かれているが、それらは偶像ではない。神道の信者は、鏡や御幣を神ご自身として拝むわけではない。神道では、神は目に見えないお方と信じているのだ。鏡や御幣は、そこが目に見えない神の降臨する神聖な場であることを、示すために置かれている。古代ユダヤ教と同じである。

依代

神社の鏡や御幣は、神道用語で「依代」と呼ばれるものである。これは神の霊が降臨する目標物の意味だ。つまり古代イスラエルの三種の神器――十戒の石の板、マナの入った壺、アロンの杖も、神道式にいえば、一種の「依代」だったわけである。・・・(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。

旧約聖書 創世記 31章36~42節

そこでヤコブは怒ってラバンを責めた。そしてヤコブはラバンに言った、「わたしにどんなあやまちがあり、どんな罪があって、あなたはわたしのあとを激しく追ったのですか。あなたはわたしの物をことごとく探られたが、何かあなたの家の物が見つかりましたか。それを、ここに、わたしの一族と、あなたの一族の前に置いて、われわれふたりの間をさばかせましょう。

わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。

わたしのことを言えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。わたしはこの二十年あなたの家族のひとりでありました。わたしはあなたのふたりの娘のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えましたが、あなたは十度もわたしの報酬を変えられました。

もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から手で去らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わたしの労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです」。

もし神が共におられなかったなら

ヤコブはラバンに身の潔白を証ししました。この二十年間、ヤコブがどれほど誠実にラバンに仕えて来たか話しました。ラバン自身よく分かっていたことでしょう。それにもかかわらず、ラバンはヤコブを不当に扱いました。それでも、神がヤコブとともにおられたので、神がヤコブを祝福しました。この神がラバンを戒めたのだとヤコブは言いました。すべてその通りであり、ラバンには返す言葉もなかったのではないでしょうか。大切なことは神と共に歩むことです。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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