日本とユダヤに共通する不思議な「罪の観念」。久保有政氏のYouTube動画解説「神道のルーツとユダヤ4:穢れ、罪の観念、清潔等について」からご紹介いたします。
大嘗祭
日本の天皇は、即位後に「大嘗祭」(即位後初めての新嘗祭)というものを行なう。そのとき、天皇は白い衣に着替え、「裸足」になって神(天照大神)の前に進み出る。靴をはいてはいけない。天皇はそこで神託を受け、真に「天皇」となり、国民の指導者となる。なんというおごそかな、神秘な式だろうか。
聖書の風習
このように神の前で裸足になるのは、じつは聖書に記されている風習と同じだ。かつてイスラエルの指導者モーセは、神の前に進み出たとき、靴を脱ぎ、裸足になったのである。「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(旧約聖書出エジプト記3章5節)。
靴を脱ぐ
モーセの後継者ヨシュアも、同様なときにくつを脱ぎ、裸足になった(旧約聖書ヨシュア記5章15節)。彼らはこのときに神託を受け、真に国民の指導者となった。今日も、ユダヤ人の「コーヘン」(祭司の家系)と呼ばれる人は、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)で、人々を祝福するとき、靴を脱ぐ。・・・天皇も、ユダヤの指導者の風習を今も行っているわけである。
足を洗う
日本人は、家に入るときにも、靴を脱ぐ。欧米人も中国人も、履物をはいたまま家にあがるが、日本人はそうではない。・・・日本人は昔、宿に着くと靴を脱ぐとともに、真っ先に足を洗った。小谷部全一郎によると、日本には明治維新当時まで、長く歩いた人が自分の家または訪問先の家にあがる前に、タライに水か湯をくんで差し出し、それで足を洗う習慣があった。小谷部によれば、これは日本人独特のものであり、他のアジア諸国より伝習したものではないという。
日本書紀の記述
日本書紀の神代の項に、「天孫は入口の床では両足を拭かれた。次の床では両手をおさえられた。内の床では真床おおう衾(きぬ)の上に、ゆったりと座られた。海神はこれをみて、この人が天神の子孫であることを知った」と書かれている。つまり、天孫は玄関の上り口で足を洗い、ぬぐって上り、書院では手をぬぐい、座敷に通って布団の上に座したのだ。このように、これは古来日本の風俗である。
古代イスラエル人の習慣
古代イスラエル人にも、同様に足を洗う習慣があった。聖書に、「彼は、この人を自分の家に連れていき、ろばに、まぐさをやった。彼らは足を洗って、食べたり飲んだりした」(旧約聖書士師記19章21節)というような記述がある。(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。
旧約聖書 創世記 40章1~8節
これらの事の後、エジプト王の給仕役と料理役とがその主君エジプト王に罪を犯した。パロはふたりの役人、すなわち給仕役の長と料理役の長に向かって憤り、侍衛長の家の監禁所、すなわちヨセフがつながれている獄屋に入れた。侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。
さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。ヨセフが朝、彼らのところへ行って見ると、彼らは悲しみに沈んでいた。そこでヨセフは自分と一緒に主人の家の監禁所にいるパロの役人たちに尋ねて言った、「どうして、きょう、あなたがたの顔色が悪いのですか」。
彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。
夢を解くことは神による
人間を中心に物事を見るのではなく、いつも神を中心にして見ることが大切です。兄たちに退けられ、イシマエルびとに売られ、パロの役人であるエジプトびとポテパルのしもべとなり、今度はポテパルの妻によって投獄されてしまったヨセフでしたが、そこでエジプト王の給仕役と料理役と一緒に過ごすことになりました。人間中心に考えるなら、なぜこんな不運な目に会わなければならないのかというようなヨセフの人生ですが、神を中心に考えるなら、まだ何か理由は分かりませんが、神の計画によってこのようになっていると捉えることができます。人間にではなく、神に期待することが大切です。これらすべての出来事の背後に神の導きがある。神には何か目的がある。それは考え方の問題ではなく、事実そうなのです。また、神を中心にして生きるとは、単なる神頼みで生きることでもありません。自分にとって都合が良い事が起これば、神の御利益だと感謝し、自分に都合の悪いことが起これば、神はいないというようなことではありません。それでは「神」とは言いながら、相変わらず人間中心の生き方に過ぎません。神を中心にして生きるとは、全知全能の神の存在を前提として生きる生き方です。人間中心の御利益ではなく、人間の思いを越えた神の最善がなされるということを前提にして生きることなのです。
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる
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