イエスは神だと断定できるか
キリスト教では三位一体という言葉も使って、イエスが神であるとするのが正しい解釈であって、イエスは神でないという解釈は異端だと考えるようです。しかし、イエス自身が「私は神である」と言ったという記述は福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)にはないので、イエスは神だというのは、後のクリスチャンが作り上げた教義だという意見もあるようです。
福音書のイエスはただの人ではない
イエスが神であるのかどうか、それは人間が決めることではないと思いますが、福音書には何が書いてあり、何が書いてないのかをご紹介して、このことについて考えてみたいと思います。福音書の記述がそのまま事実であるかどうかは別として、その内容を見るなら、イエスはただの人ではないことは明らかだと思います。イエスは奇蹟を行い、悪魔を追い出し、罪を赦すなど、人間が持っていない力を行使しています。イエスは神だと考える人がいるのは頷けると思います。
「私は神だ」というイエスの言葉はない
確かにイエスは「神の子」、「キリスト(ヘブライ語でメシヤ、神様に油注がれた者という意味)」であることは認めています。また、神と本質的に同じであるとも言っていますし、神のように扱われることを否定もしていません。しかし、イエス自身が「私は神(ギリシヤ語でセオース、ヘブライ語でエロヒーム)」と言った記述はないこともまた事実です。ですから、イエスは神ではないと明確に否定できないまでも、神と断定することはできないとする人がいてもおかしくないように思います。
神とはイエスなのか
また、「イエスは神なのか」というテーマはよく議論されますが、逆に「神とはイエスのことなのか」という議論はあまりされないように思います。イエスは神だと考える人でも、神とはイエスのことなのかと問われれば、父なる神も神ですから、そうだと言い切れないところがあるように思います。イエスは神だと断定できないという人にとっては、その逆が成立しない、つまり神はイエスだとは言えないという思いもあるのかもしれません。
正統と異端の問題
イエス自身が明確に自分は神だと言ったという記述がない以上、神じゃないとは言えないが、神と断定できないという意見も尊重されるべきではないでしょうか。イエスを神と認めないなら異端だとする考え方が問題ではないでしょうか。
大切なことは神様を中心にして生きること
私はイエスが神かどうかということは議論すべきことではなく、それぞれが確信を持てば良いことだと思います。大切なことは自分の神学や理論の正統性ではなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。たとえ正しいと言われている神学理解を持っていたとしても、その知識が神様を中心にして生きるために益となっていなければ、何の意味もないと私は思います。
イエスを通して神様を深く知る
ただ、神様はイエスを通して神様の性質を人間に示しておられるとイエスは言っていますから、イエスが神であるかどうかに関わらず、イエスを通して神様を深く知ることが大切だと私は思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。そして、それぞれに与えられる確信を大切にし、他人の確信も尊重しましょう。それが神様を中心にすることではないでしょうか。
新約聖書 使徒の働き 15章22~35節
そこで使徒たちと長老たち、また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送ることを決議した。選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。
「兄弟である使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつをいたします。私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。
そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一決しました。このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名(みな)のために、いのちを投げ出した人たちです。
こういうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。
彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った。パウロとバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた。
キリスト教という宗教
これは、異邦人はユダヤ教徒になる必要はないということをエルサレムにいるイエスの弟子たちも公式に決議し、その決議文書をユダとシラスに託して、バルナバとパウロとともにアンテオケ教会に送ったという出来事の記録だと思います。このようにしてキリスト教会はユダヤ教とは違う宗教として異邦人世界に広がって行くことになったのだと思います。
本質は宗教ではなく、神の国
しかし、大切なことはキリスト教徒になることでもないと私は思います。イエスをメシヤとして受け入れ、神様を中心とした生き方をすることが、イエスが教えた神の国だと私は思います。それはユダヤ教徒の生活をすることでもありませんが、キリスト教徒の生活をすることでもないと思います。もちろん、しても良いと思いますが、何が本質なのか見極めることが大切だと思います。
吉村様、はじめまして。拝見した者です。特に下記の内容に同感です。
「私はイエスが神かどうかということは議論すべきことではなく、それぞれが確信を持てば良いことだと思います。大切なことは自分の神学や理論の正統性ではなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。たとえ正しいと言われている神学理解を持っていたとしても、その知識が神様を中心にして生きるために益となっていなければ、何の意味もないと私は思います。・・・ただ、神様はイエスを通して神様の性質を人間に示しておられるとイエスは言っていますから、イエスが神であるかどうかに関わらず、イエスを通して神様を深く知ることが大切だと私は思います。」
聖書に、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ第一2:5)とあるとおり、イエスは神と人との仲介者であって、それは神か人かという議論になじまないということでしょう。
宗教改革は神学的に不徹底だったと云われますがまさにそうで、古代教会時代に教父が作った煩雑な信条・教義が現代に至るまで絶対的権威を付与されています。その一方で、その教義の源泉である聖書の研究は進み、現代において「キリストは誰か」という問いは単純に言えなくなっています。
キリスト教会の最大公約数的一致点とされる「イエスは神の子キリストである」という信仰命題が、「イエスは神と人との仲介者である」という意味で理解できるなら、従来のように「異端」のレッテルを貼って教会から排除するような律法主義的な言動を脱却し、福音主義に相応しい共同体へと改革されることでしょう。
有益なコメントをありがとうございます!