日本のお祭りの中に残るユダヤ人渡来の痕跡について、坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介します。
諏訪の守屋山
イスラエルの大使が駐日大使として就任すると真っ先に訪れる場所がある。それは長野県の諏訪市だ。(中略)諏訪には守屋山という山がある。この山は諏訪大社の御神体である。(中略)モリヤ山はユダヤ人の国イスラエルの首都エルサレムにある山の名前である。(中略)そのモリヤ山は「タナフ(旧約聖書)」に登場する。
旧約聖書に記されているイサクの物語
「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽す捧げ物としてささげなさい』」(創世記22章2節)
神様に従おうとするアブラハム
すると神の忠実な僕(しもべ)であったアブラハムは一人息子のイサクを伴ってモリヤの山に行き、イサクを縛って刃物を振り上げ、まさにその子を殺そうとした。その時、主の使いが天から彼を呼んで言った。
神様の声
「アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を畏れる人であることをわたしは今知った。」
イサクの代わり
アブラハムが目を開けると、そこに角を藪に引っ掛けている山羊がいた。アブラハムは息子イサクの代わりに、雄の山羊を燔祭として神に捧げることができた。(中略)
諏訪大社の祭とイサクの物語の共通点
では、はたしてこの諏訪の地と古代ユダヤ人と何の関係があるのだろうか?実はそれを知る手がかりが、「守屋山」を御神体とする諏訪大社で行われる「御頭祭(おんとうさい)」という祭りの中にあった。
ミサクチの祭り
「御頭祭」は別名、「ミサクチの祭り」とも言われ、毎年四月十五日に行われている。(中略)この祭りの内容を簡単に記すと、「少年が『御贄柱(おにえばしら)』に縄で縛られ、神官が小刀で少年を切りつけようとすると、使者が現れ神官を止め、少年は解き放たれて命が救われる」というお話だ。そして少年の代わりに鹿七十五頭を燔祭として捧げ、その首を神殿に供えたのだ。(中略)
ヘブライ語でイサクに由来する祭り
まず「御頭祭」の別名である「ミサクチの祭り」だが、「ミサクチ」という言葉はヘブライ語で、「ミ・イツハク」と読むことができる、とトケイヤー氏(ユダヤ教のラビ)は言う。その意味は、「イサクから」とか「イサク由来の」という意味だ。(中略)
山羊の代わりに鹿を捧げた
諏訪には山羊がいなかったので、代わりに鹿が捧げられたのだろう。また、鹿の中に耳の裂けた鹿がいたとあるが、これは藪に角を引っかけた山羊をイメージしたに違いない。
古代日本のユダヤ人の痕跡
この事実から感じるのは、やはり古代の日本にユダヤ人が渡来し、諏訪の地にやって来たのではないか、ということである。そして彼らはアブラハムの子孫として、イサクを捧げたアブラハムの信仰を忘れなかった。諏訪の地に住み着いたユダヤ人は、そこにあった山をモリヤ(守屋)山と名付けたのである。(本からの抜粋は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、日本人の信仰と生活のルーツでもあると思います。キリスト教という西欧の宗教の教典としてではなく、日本人の心を知り、神様を中心として生きるために聖書をお読みいただきたいと思っています。
新約聖書 マタイの福音書 6章14、15節
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
イエスの教え
イエスにつき従って来た人たちに語ったイエスの教えの続きです。人を赦すことは自分が赦されることと関係しているとイエスは教えています。
人を赦すことと赦されること
確かにそうだと私は思います。人を赦すことによって、自分も赦されたという喜びを実感できるのではないでしょうか。人を赦さないなら、自分も赦されたと実感するのは難しいのではないかと思います。
負いめが赦される
昨日も書きましたが、完全な人はいないと思います。誰でも自分の心を責める負いめを持っているものだと思います。なるべく忘れようとしていますが、やっぱり私たちの心に重くのしかかっているのではないでしょうか。
赦すことは正しい
誰も完全な人はいません。だから人の負いめを赦すことは正しいことだと思います。いつまでも人のした悪を思っていることは正しくないことだと思います。赦しましょう。「赦せない!」という声が聞こえてきそうです。でも、私の経験から言えることは、「赦せない」ことはないと思います。ただ、「赦したくない」のではないでしょうか。「赦す」ことは、あなたの決断一つで出来ることだと思います。「赦す」と決断する時、実はあなた自身が赦されたことを実感することができると思います。だから赦しましょう。
自分を中心にするのか、神様を中心にするのか
結局、それは「赦せない!」という自分の声を中心にするのか、「赦しなさい」という神様の声を中心にするのか。どちらを中心にして生きるのかという問題だと思います。自己中心はあなたを滅ぼしてしまいますが、神様を中心にするなら、あなたは救いを体験すると私は思います。それは何かの宗教をやることではありません。何を中心にして生きるのかという生き方の問題だと思います。
そこにどんな問題の解決もあると思います
私はすべての人に神様の声を中心にして生きていただきたいと思っています。そこにどんな問題の解決もあります。だから神様を中心にして生きることができるように、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。皆様の祝福をお祈りしています。
いかがでしたか
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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部4円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。
今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
アメリカ在住、主人は以前は日本人教会の牧師をしておりました。茶道を始めたことにより、日本の文化及び歴史を学び直しています。吉村様の語られていることに深く共感いたします。
足立久美様、コメントいただきありがとうございます。また「深く」共感という言葉にとても励まされます。茶道にも聖書の価値観が反映されていると聞いたことがあります。これからもよろしくお願いします。
神に祈り、聖書を読む、キリスト教徒になる必要がないとおっしゃいますが、聖書には、イエス様以外には救いの道がないと書かれています。神に祈る、= イエス様に祈る事なのではないでしょうか?イエス様を信じる事がキリスト教徒として生きる事だと思います。イエス様は神様です。
聖書を毎日読めば、旧約聖書すべてにおいて、イエス様についての預言が書かれている事がわかります。新約聖書を読み、それでいて主に祈るので有れば、イエス様を信じていることになります。それでいてキリスト教徒ではないというのは、新約聖書を信じないと言うことになります。
コメントありがとうございます。私の著書を読んでいただければ分かると思いますが、イエス様を信じることは必ずしもキリスト教徒になることではないと私は思っています。イエス様を信じるとは、いくつかの意味があると思います。著書を読んでいただければ幸いです。
私が他神社に行った後、一神教です。と教えのお告げがありました。なので、イエスを信じる=神仏ではないそうです。