曹洞宗の住職で、元キリスト教徒(プロテスタント)のドイツ人、ネルケ無方という方がその著書「日本人に『宗教』は要らない」の中で、「日本人は宗教に無関心である。これは事実だ。日本人は無宗教である。これは事実に反する。」と述べておられます。しかし、私は逆に「日本人は宗教に無関心である。これは事実ではない。日本人は無宗教である。これは事実である。」と思いますが、皆さんはどう思いますか。ネルケ氏はこう続けています。
「無宗教」と書いた妻
12年前、私は日本人女性と結婚した。母国ドイツにも入籍の登録をするため、私は妻と一緒に大阪のドイツ領事館へ行った。ドイツの婚姻登記簿には宗教の記入欄がある。夫婦ともに、どの宗教を信じているかを記入しなくてはならなかった。私は曹洞宗の住職だから、当然「仏教」と書いた。しかし驚くことに、私の妻は何の抵抗もなく「無宗教」と書いたのだ。坊主の妻が、無宗教!確かに、私はそれまで、妻とそういった話をしたことがなかったが・・・・・・。
仏教を否定しているわけではない
このように私の妻を含め、日本人は特定の宗教を信仰しているという意識が希薄だ。ただし、無宗教だからといって、妻は仏教を否定しているわけではない。妻はお盆やお彼岸には祖母の墓参りをするし、私と一緒に寺に住んでいる。
日本人は「無宗教」ではないと言うネルケ氏
私が日本にやってきて20年以上の月日が流れた。私が初来日したころから、日本人の宗教に関する意識はあまり変わっていない。しかし、私の日本人に対する意識は変わった。日本人は決して無宗教ではない。日本人は、外国からの様々な物事を受け入れ、カスタマイズし、生活全般に反映している。宗教も同様である。日本人は「非常に寛容な宗教心」を持っているのだ。私はそう思うようになった。(「日本人に『宗教』は要らない」からの引用は以上です。)
「無宗教」の積極的な意義
しかし、島田裕巳氏はその著書「無宗教こそ日本人の宗教である」の中で、「無宗教」には積極的な意義があるとして、このように記しています。
宗教の世界観は強固で、それを信奉する人間の考え方や見方を縛ってしまうところがある。そうなると、自由な発想は妨げられる。また、異質なものを受け入れることを難しくしていく。あるいは、好奇心の発動を妨げたりもする。選択肢が狭まることで、世界も狭くなる。私たちが本当の自由を確保していくためには、特定の宗教を信仰し、それ以外を認めなくなるのではなく、無宗教の立場に立って、あらゆる宗教を排除しない方向に踏み出していく必要があるのではないだろうか。(島田裕巳著「無宗教こそ日本人の宗教である」からの引用は以上です。)
「無宗教」を志向する日本人
島田氏も指摘しているように、日本人は宗教に関心がないのではなく、あえて特定の宗教を信仰しない「無宗教」を選びとっている(それは無意識かもしれませんが)のではないかと私は思います。それが日本人の宗教観であり、それは神様を中心とした生き方だと言うこともできるのではないかと思っています。(日本人はそれも意識していないと思いますが。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の宗教観に深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみていただきたいと思います。
新約聖書 マタイの福音書 9章18~26節
イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手(みて)を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。
イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。
イエスは群衆を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。
死んだ少女が生き返った
死んだ少女が生き返ったり、長血をわずらっていた女が直ったり、本当にこのようなことがあったのでしょうか。もちろん、確かめる術はありません。しかし、命は確かに神様の支配の下に置かれていると私は思います。先ほどまで息をしていた人が、最後の息を引き取る。それは大変不思議なことだと思います。ほんの一瞬前、息をしていた時と何が変わったのでしょうか。命がその肉体を離れた瞬間だと思います。それを支配しているのは確かに神様ではないか。もちろん、証明することも出来ませんが、私はそのように思います。そうであれば、神様はその命を肉体に戻すことも出来るのではないでしょうか。それどころか、神様は無から命そのものを造り出すことも出来ると思います。その神様の力が神様から特別に油注がれた(メシヤ、キリストという意味)イエスを通して働いたとしても不思議ではないのではないかと私は思います。
神様に希望を置く「信仰」
この会堂管理者はイエスが来て、手を置けば娘は生き返ると思っていました。また、この長血をわずらっていた女はイエスの着物に触れれば直ると思っていました。イエスはそれを「信仰」と呼んでいます。「信仰」には色々な意味があると思います。自己中心を退けて、神様の思いや願いを中心にして生きることも信仰だと思いますが、人間には不可能なことでも神様には出来る。それもまた神様を中心にした生き方であり、「信仰」だと思います。日本人は太古の昔から、そうやって神様に希望を置いて生きて来たのだと思います。日本人にとって、それは何か特定の宗教を信仰することではなかったのだと思います。
いかがでしたか
「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの人に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、お知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。
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2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。