【恋愛・結婚】結婚満足度の両極化

縁
今が一番?こんなはずじゃない?

ある統計によると、結婚満足度は結婚して時間が経つほど、その満足度が上がる夫婦と、かえって下がってしまう夫婦に両極化しているそうです。結婚生活が長くなればなるほど、今が一番幸せと感じる夫婦もあれば、こんなはずではなかったという夫婦に分かれてしまうということでしょう。そこにはどんな違いがあるのでしょうか。

かつての夫婦像

かつては仕事を真面目にやって家計を支える夫と家事をきちんとこなす妻がいて、与えられた責任をそれぞれに果たすことによって、特別ということでもないかもしれませんが、それぞれ幸せを感じていたのかもしれません。求められている家庭像、夫婦像というものがはっきりとしていて、それはそれで良かったのかもしれません。

最近の夫婦像

しかし、最近の夫婦はお互いに尊重し合ったり、共に成長したり、もっと分かり合える関係を持ちたいと願う人たちが増えているようで、それはそれで悪いことではないかもしれませんが、関係を築くための努力が以前にも増して必要になってくるのではないかと思います。インターネットを見ると、良い夫婦関係を築くために必要なのは、多くの時間を夫婦で過ごすこと、多くのコミュニケーションを持つこと、お互いを尊重すること、などなど、このニーズに応えようとする内容が多いように思いますし、これまで、このブログでもそのようなヒントをご紹介してきました。

それだけが答えでもない

しかし、私はそれだけが答えだと思う必要はないし、全ての夫婦が後者のような夫婦でなければいけないということでもないと最近思うようになりました。かつての日本の古き夫婦関係のように、コミュニケーションとか、デートとか、そういう関係はあまりないかもしれませんが、それぞれの責任や役割を果たして、共に生活するというのも幸いなことだと思います。

最近の傾向に過ぎない

結局、こんな夫婦でありたい、こんな家庭でありたいという最近の傾向が固定観念のようになって、それが中心になって、そうでないと幸せではないという考えになってしまうとかえって辛くなってしまうこともあるのではないでしょうか。夫婦には様々な形があって良いと思います。大切なことは理想的な夫婦像を中心にすることではなく、やはり神様を中心にすることだと思います。自己中心を退け、神様が与えてくれた伴侶をそれぞれの方法で大切にすること。そこに幸せな結婚があるのではないでしょうか。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の生活に深い関係があるものだと思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きることを考えるために聖書を読んでみていただきたいと思います。

新約聖書 マタイの福音書 12章22~30節

そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。

わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

イエスを通して働く超自然的な力

イエスを通して神様の超自然的な力が働いていたことは、何かの例えではなく、事実として記されているのだと私は思います。イエスに敵対するユダヤ教の指導者であるパリサイ人もそれは「悪霊どものかしらベルゼブルの力」だと言っており、人間的には説明できない、超自然的な力が働いていたことを裏付けているように思います。

問われていること

「もう神の国はあなたがたのところに来ている」とイエスは言っています。それを受け入れるのか、それとも拒絶するのか。つまり、神様を中心として生きるのか、それとも自分を中心にして生きるのか、それが問われているということではないでしょうか。

中間はない

「味方でない者は逆らう者。ともに集めない者は散らす者。」どちらでもない、中間ということはないということではないでしょうか。神様を中心としないなら、それは自分を中心としているということだと思います。それぞれの良心で、神様からの語り掛けに耳を傾けたいと思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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