結婚を考えているお相手であっても、行き違いはあるでしょう。恋愛経験が少ない人であれば、なおさらそうだと思います。しかし、大切なことは何でしょうか。仲人でライターをしていらっしゃる鎌田れいさんの「『47歳恋愛経験ゼロ』男が最後に射止めた相手『私のことは遊びですか?』と激怒されたが…」という記事をご紹介して考えてみたいと思います。
恋愛経験のない章雄の婚活
章雄(当時47歳)は、それまで一度も恋愛をしたことがなかった。「僕には、勇気がなかった。恋愛に興味がなかったわけではなく、女性に話しかける勇気がなかったんです」活動7カ月目に入ったところで、現在の妻、弥生に出会った。
恋愛経験のない弥生との交際
弥生もまた38歳になるまで恋愛経験がないままに年を重ねてきた女性だった。恋愛初心者同士、交際は順調に進んでいった。ところが、このまま結婚に向かってまっしぐらに進むだろうと思っていた矢先、デート中に章雄が発した言葉を発端に、大げんかが勃発した。
決死の覚悟
ドライブデートの帰り道に、彼女を家の近くまで送り、ドキドキする気持ちを抑えながら決死の覚悟で言った。「キスしてもいいですか?」これは章雄にとって、ファーストキスなのだ。が、弥生の顔が一瞬こわばった。
私のことは遊びですか?
その夜、弥生から怒りのメールが送られてきた。「まだ結婚の約束もしていないうちから、『キスしていいですか?』とは、どういうことですか? 私のことは遊びですか? 遊びなら、さっさと断ってください。次のお見合いをしてください」
ここは章雄さんが大人になって
「僕も彼女とは、うまくやっていけないと思いました」電話口で、章雄は明らかに怒っていた。「ね、これは行き違いなんじゃない? 弥生さんは、『大好きな章雄さんにとんでもないことを言ってしまって、振られてしまう』と今泣いているそうよ。弥生さんも恋愛に不慣れだから、言われた言葉をどう受け止めていいかわからなくて心にもないことを言ってしまったんだと思う。ここは章雄さんが大人になって、今の弥生さんを大きく包んであげましょうよ。彼女のこと、好きなんでしょう?」
こうして仲直りをしたふたりは直後に婚約をし、成婚退会していった
1年目ぶりに会った章雄は、この大げんかのことを懐かしく思い出した。「彼女は、自分が“こうだ”と思ったことは、人にかみつかずにはいられないタイプなんです。だいぶ柔らかくなりましたけど、それが彼女の性格の癖みたいなものだと今はわかっているので、そうなったときには、僕が“はい、はい”と言いながら折れていますよ」。
夫婦になっていく
お互いの性格の癖を知りながら、けんかをしたり、歩み寄ったりして夫婦になっていく。「結婚する前は両目を開けて、結婚したら片目を閉じて相手を見ろ」とは、よく言ったものだ。(記事からの要約引用は以上です。全文は元記事でお読みください。)
そもそも何のための結婚なのか
結婚してからも行き違いはあるだろうと思いますし、衝突することもあるでしょう。感情的にはがっかりしたり、傷ついたり、怒りを感じたりすることもあるかしれません。しかし、そもそも何のための結婚なのでしょうか。結婚そのものを目的とするのではなく、結婚する二人が共通の目的を持って、共に前進することが大切ではないでしょうか。共通の目的に目を留めるなら、時に衝突することはあっても、乗り越える意味もあると分かると思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツでもあります。夫婦共通の目的とは神様を中心にして生きることに他なりません。キリスト教の教典としてではなく、夫婦共通の目的に目を留めるためにも聖書を読んでみてください。
新約聖書 マタイの福音書 27章32~44節
そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。ゴルゴダという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分を救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
誰の勝利なのか
祭司長、律法学者、長老たちは、これで自分たちが勝利したと考えたのでしょうか。彼らは最後まで自分を中心にし、それを貫くことが勝利と考えたのだと思いますが、本当にそうでしょうか。イエスは最後まで神様を中心にしました。神様の前ではどちらが勝利したのでしょうか。
彼は他人を救った
祭司長、律法学者、長老たちはイエスを馬鹿にして、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」と言いました。イエスが人々を救ったことは彼らも分かっていたのです。イエスは正しく生きたと分かっていたのだと思います。誰も良心に語られる真実を誤魔化すことはできないでしょう。大切なことは神様を中心にすることだと思います。
いかがでしたか
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