日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。
平安遷都
794年に、日本では「平安遷都」がなされ、日本の政治の中心は奈良から京都の平安京に移った。この平安京を造成するために、最も中心的に活躍したのは、秦一族であった。秦氏の人々は、早くから日本に大勢渡来し、すでに8世紀には日本各地で相当な力を持っていた。特に京都は、秦一族の本拠地であった。
祇園祭
ここで、かつてアサヘル・グラントは「景教徒はイスラエルの失われた部族である」と述べていたこと、また佐伯好郎や手島郁郎が「秦氏はユダヤ人景教徒である」と信じていたことなどを、思い起こしてほしい。平安遷都後、京都ではまもなく、「祇園祭」が行われるようになった。
7月17日
京都の祇園祭の最大のイベントは、古くから一貫して必ず7月17日に行われてきた。祭の中心は7月17日からの8日間であり、そのほか7月1日や10日にも、重要な催しがある。じつは7月17日というのは、かつてノアの箱舟がアララテ山上に漂着した日である。「箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった」(旧約聖書創世記8章4節)
仮庵の祭
以来、ヘブル人(イスラエル人)はこの日に謝恩祭を行なっていた、ということも考えられる—もっとも聖書にはそういう記録はないが。これはモーセ以後は、7月1日、10日、また15日から8日間にわたって行われる「仮庵の祭」(スコット)に取って替わられた。しかし、7月17日がノアの箱舟の漂着日であることは、イスラエル人に深く覚えられていた。その日付は聖書に記されているからである。
古代の祭
第3章で述べたインドのベネ・イスラエルの人々の間では、もはや他のユダヤ人が守っていないような古代の祭が守られていたことが、知られている。日本の祇園祭も、そうなのだろうか。
ソロモンの祭
京都の祇園祭は、もともと民の間に伝染病が起らないようにとの願いから始まったものである。これは昔イスラエルで、ソロモン王が神殿完成の際、国に伝染病が起らないようにと祈り、祭を催したことに似ている。ソロモンはその祭りを、ユダヤ暦第7の月の15日から8日間(最後の「きよめの集会」の日も入れて)にわたって行った(旧約聖書Ⅱ歴代誌7章8~10節)。ソロモンのこの祭と、京都の祇園祭とは二日間のずれがあるが、それでもほぼ同じ時期に、同じ由来から8日間の祭が行なわれていたのである。
ユダヤの祭なのか
スコットランドの実業家N.マクレオドは、明治時代の日本にやって来て、この京都の祇園祭を見た。まさにユダヤの祭を思い起させるものだったと書いている。(詳しくはM.トケイヤー著『ユダヤと日本・謎の古代史』産能大学出版部刊を参照)。また祇園祭の山鉾には、16世紀にペルシャやインドからシルクロードを通じて伝来したという、重要文化財の絨毯等が今も装飾に使われている。
大国際都市京都
日本の歴史家は、それ以前の時代にも、また非常に古い時代から、京都は多くの帰化人たちの住む大国際都市だったと述べている。シルクロードを通って日本にやって来て、祇園祭に参加したり、見物して楽しんだユダヤ人たちもすくなくなかったはずである。
エンヤラヤー
祇園祭はいつも「エンヤラヤー」のかけ声と共に始まる。日本人にその意味を聞いても「わかりません。伝統的にそう言うのです」の答えしか返ってこない。しかし先に述べたように、これはユダヤ人には、ヘブル語で「私はヤハウェ(神)を賛美します」を意味するエァニ・アーレル・ヤーと聞こえてならない。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統に深い影響を与えているのではないかと考えられます。外国の宗教の教典という考えをひとまず脇に置いて、聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 8章22~25節
ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。
そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。
恐れ驚いた弟子たち
弟子たちは恐れ驚いて言い合ったとあります。これが文字通り事実の記録であるとすれば、そうだろうと思います。明らかにイエスは普通の人ではないと思います。イエスを通して神の超自然的な力が働いていたということを聖書は言っていると思います。
あなたがたの信仰は、どこにあるのか
イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と言われたとあります。私たちの人生にも様々な波風が起ることがあると思います。しかし、目には見えませんが、私たちはいつも神の守りの手の中に置かれているということに目を止める必要があると思います。旧約聖書詩121篇にこういう言葉があります。
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」