神様を中心にして、苦手な人との対応も身に付ける
木曜日のテーマは「人間関係」です。職場においても、隣近所においても、趣味のサークルにおいても、良い人間関係の中で過ごしたいと誰もが考えていると思います。たまたま気の合う人だけで過ごせれば、それはそれで良いのかもしれませんが、神様を中心にすることで、苦手な人であってもどのように対応すれば良いのかを身に付ければ、どこでも良い人間関係を築くことができるようになると思います。
なぜ苦手だと感じるのでしょうか
その人の言動、考え方が自分と合わない、好きでない、そうすべきでないと思うのかもしれません。全ての人が自分と同じ考え方をしている訳ではありません。神様は自分とは違う考えも許しているということだと思います。自分の考えは自分の考えとしてしっかりと持ちながら、その人にはその人の考えがあることを認めることが大切ではないでしょうか。
神様を中心に自分と他人の境界線を明確にする
それでも、自分とは違う考えを押し付けて来る人は苦手と感じるかもしれませんね。その場合も、自分の意見は自分の意見としてしっかりと持ちながらも、その人の意見はその人の意見として聞いてあげれば良いと思います。神様を中心に自分と他人の境界線を明確に持つことが良い人間関係の秘訣だと私は思います。
ネガティブな人にどう対応するのか
嘘をつく、いつも不平不満を言う、不正なことをする。そういう人は誰でも苦手だと思います。嘘をつかざるを得ないような事情もあるのかもしれません。不平不満を言わざるを得ない事情があるのかもしれません。なんでそんな不正なことをするのだろうか。どんな事情があるのだろうか。もし、私たち自身が神様を中心にすることで、喜びと平安に満たされているのであれば、そのようなネガティブな人のマイナスと思えるようなエネルギーを少しでも吸い取ってあげて、ポジティブにしてあげることも可能かもしれません。でも、無理は禁物だと思います。その人の問題はその人の問題であって、あなたのせいではないと思います。
日本人の人間力。どんな努力をしたら良いのか
怖い人。無愛想な人。こういう人も苦手とする人が多いかもしれません。でも、気にしないようにしてください。それもまたあなたのせいではなく、その人の問題だと思います。私たちができることは、たとえその人がどんな人であっても分け隔てしないで愛することだと思います。愛するというのは好きになるということではなく、たとえ好きでなくても、苦手と感じても、その人の存在を尊重し、その人の言葉に耳を傾け、その人の思いを受け止めるように努力するということだと思います。それは一朝一夕に身に付くものではないと思いますが、そうやって私たちは神様を中心にするなら、人間力を高めて行くことができると思います。これが日本人の人間力ではないでしょうか。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみたいと思います。神様を中心とした生活の参考にしてみてください。
新約聖書 ルカの福音書13章10~17節
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
イエスは安息日ではなく、神様を中心にしました
ユダヤ教では金曜日の午後6時から土曜日の午後6時までは安息日で、一切の仕事をしてはならないと決められていたようです。そして、会堂に集まり、聖書の話を聞きました。この日、ある会堂でイエスが教えておられました。何を教えておられたのか、その内容は記録されていません。そこに病気の女がいたので、イエスはいやしました。それを見た会堂管理者が憤って群衆に言いました。何が問題なのでしょうか。イエスの言葉から私たちは何を考えれば良いのでしょうか。
教えではなく、生きて働いておられる神様をいつも中心にする
安息日も旧約聖書の時代に与えられた神様の命令ではないのでしょうか。しかし、その本来の意味が忘れられ、ただの形式となり、神様が中心でなくなれば、逸脱が始まります。そして、自分の都合で実際には安息日であっても家畜に水を飲ませているのです。当たり前のことです。そうでなければ家畜は死んでしまいます。人は教えを求める傾向がありますが、大切なことは教えではなく神様を中心とすることです。いつも今生きて働いておられる神様を中心にして、何が正しいことなのかを判断して生活することが大事だと思います。