【日本とイスラエル】仇討ち

サムライ

「仇討ち」に関して、日本とイスラエルに共通する内容を、久保有政氏のYouTube動画解説「日本の風習の中の古代イスラエル」からご紹介いたします。

「仇討ち」の風習

古来、明治8年まで、日本には「仇討ち」の風習があった。父や母など、親族を殺した犯人をつきとめ、探し出してその仇を討ち、復讐を果たすものである。曽我兄弟の仇討ちなどは有名だ。江戸時代の仇討ちは、領主が派遣した役人の立ち会いのもと、仇を討つ者と、討たれる者が単独で真剣勝負する形をとった。それは合法的なものとして行われた。このような武士の作法は世界的にみても珍しい。

古代イスラエルにもあった「血の復讐」

・・・同様の仇討ちの風習は古代イスラエルにもあったのだ。それは「血の復讐」と呼ばれていたもので、旧約聖書に、「敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい」(旧約聖書民数記35章21節)と規定されている。不法な殺人者に対し、みずから仇討ちすることが法的に認められていたのである。

のがれの町

小谷部全一郎によれば、昔の日本には、罪を犯した者が特定の天領地(幕府直轄地)に逃げ込んだときには、上司もこれを捕えることができないという風習があった。のちに、これは仏寺にも伝わって俗に「駆け込み寺」と呼ばれ、また婦女のためにもこのことがあった。たとえば鎌倉の東慶寺は、そのような駆け込み寺であった。明治維新前まで、罪を犯した者がのがれてこの寺に身を寄せれば、上司の権威をもってしても捕えることができなかった。かつ、その罪は消滅したものとされた。千年の歴史を持つこの聖堂は、今は移されて横浜の三渓園に保存されている。これはもともと、仏教に限らず、日本古来の風習であったと思われる。

古代イスラエルの風習

・・・それは古代イスラエルの風習でもあった。旧約聖書は、イスラエル人の住む所には「のがれの町」というものを設けなければならないと、命じていた。「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない」(旧約聖書民数記35章11節)。このように、日本でも古代イスラエルでも、仇討ちを認める一方で、仇を討たれる者のためには「のがれの町」と呼ばれる救いを与えていたのである。(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。

旧約聖書 創世記 41章14~24節

そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。パロはヨセフに言った、「わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない。聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」。

ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。

パロはヨセフに言った、「夢にわたしは川の岸に立っていた。その川から肥え太った、美しい七頭の雌牛が上がってきて葦を食っていた。その後、弱く、非常に醜い、やせ細った他の七頭の雌牛がまた上がってきた。わたしはエジプト全国で、このような醜いものをまだ見たことがない。ところがそのやせた醜い雌牛が、初めの七頭の肥えた雌牛を食いつくしたが、腹にはいっても、腹にはいった事が知れず、やはり初めのように醜かった。ここでわたしは目が覚めた。

わたしはまた夢をみた。一本の茎に七つの実った良い穂が出てきた。その後、やせ衰えて、東風に焼けた七つの穂が出てきたが、そのやせた穂が、あの七つの良い穂をのみつくした。わたしは魔術師に話したが、わたしにそのわけを示しうる者はなかった」。

ヨセフはパロのもとに行った

何とヨセフはエジプト王パロの前に呼ばれることになりました。これが神の計画だったのでしょう。人間的に画策しても、どうしたら王の前に出ることが叶うでしょうか。人間ではありません。神が導いてくださらなければ決して実現できないどころか、ヨセフは考えもしなかったことかもしれません。その時、その時は、なぜこのような不運があるのだろと思うような事の背後にも、こうして神の導き、神の計画があります。いや、世の中には意図的に悪を計る人もいることでしょう。しかし、その悪でさえも、神は、神に従う人のために、善に変えることができます。人ではなく、神に目を留め、神の目にかなう生活を送ることこそが幸いな生き方です。人ではなく、神に期待して、神に喜ばれる歩みをしましょう。それこそが太古の昔から日本人が大切にして来た生き方に他なりません。今こそ、この本当の日本人の心を取り戻しましょう。世界がそれを待っています。世界の救いが、この日本人の心にかかっています。

いかがでしたか

参考になりましたら「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

動画配信もしています

YouTubeで動画配信もしています。「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」全9回の予定です。第5回「剣山・ソロモンの秘宝」まで配信しました。ぜひご覧ください。チャンネル登録、高評価もお願いいたします。

本をお求めください
本の表紙

Amazonから「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。電子版は100円。文庫版は2,182円。日本人の高い国民性のルーツは聖書にあること、イエスの教えはキリスト教よりむしろ「日本人の信仰」の中に引き継がれていることが分かります。ぜひ、読んでみてください。詳しくは書籍情報をご覧ください。

目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

「日本人の幸せ」(電子版100円)をお買い求めください!

Amazonから「日本人の幸せ—古代ユダヤ人がもたらしたイエスの教え」(196ページ)が販売されました。一人でも多くの方に読んでいただけるように、電子版の価格を100円といたしました。(文庫版も好評発売中。詳しくはAmazonのサイトでご確認ください。)レビューのご協力もよろしくお願いします。

目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

詳しくは書籍情報をご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA