「子供の教育」親の信念と子供の自主性

ピアノを弾く子供

「子供の教育について」という大変興味深い文章を見つけました。共感するところが多々ありましたので、一部を抜粋してご紹介いたします。ぜひ全文もお読みください。

子供の自主性

幼い子供たちの親は、子供の将来を考え、様々な夢を描く。そして、適当な時期に子供に特殊技能を身に付けさせたいと考える。それがお「稽古」ごとだ。多くの大人たちが誤解していることがある。それは、子供の自主性という考え方だ。子供の自主性に任せて成功するのは、天才的な能力を持つほんの限られた子供たちだけだ。大半の凡人は全て挫折すると断言したい。例えば、ピアノだ。

親の信念

音楽の素晴らしさをわかったら、たとえ自分では楽器ができなくとも、もし経済的に余裕があるなら、そして楽器を演奏することはすばらしいことだと感じたら、小さいときから習わせるべきだ。そして、やりはじめたら最低18才までは、強制的に続けさせなければならない。でも子供は必ず嫌がる。親に信念がなければ、ここで負ける。特に、子供の自主性なんてほざいている親はいちころだ。

信念が揺さぶられる時

子供は必ず嫌になる。大人も必ず嫌になる。では、ピアノはやらせないほうが良いのか。ノー。6才から始めたとして18才まで12年間、耐える覚悟と情熱があれば、子供ではなく貴方にだよ。子供が大人になった時点で100倍の感謝をされることを保証する。

確信が求められます

ピアノが弾けるようになるかならないかは100%親の意思で決まる。親が音楽の専門家の場合はこういったレベルのことは自分の経験則として知っている。必要なのは、10年以上継続する意思と多少の障害でもめげない、忍耐力だ。初期のモチベーションを10年以上続けるには、人生観の確立も必要だ。

子供の幸せ

貴方はある時期子供に怨まれるかもしれない。しかも長期間。子供に嫌われることを恐れたら、何事も達成されない。親は子供に嫌われるものだ。あらゆる躾や学習は、やがて自分(親)が死んだとき、子供が自分で力強く生き、実り多き人生を歩ませるためだ。

著者の母親

私は、子供のころ全く才能がないのに母の強い意志と情熱でピアノを続けさせられた。楽しいと思ったことは一度もない。中学生の頃はずいぶん汚い言葉で母をののしったこともある。止めることを正当化する屁理屈も言い続けた。しかし、母は止めさせなかった。おかげで私は現在音楽を深く楽しむことができ、人生が何倍も実り豊かになっているという実感がある。母には100万倍の感謝をしても足りない。
しかしその母はもう今はいない。(サイトからの抜粋は以上です。)

好き嫌いと自主性の違い

ピアノを習わせるかどうかは親の価値観にもよりますが、親がこれは大切だと確信するものを子供に身に付けさせたいのであれば、この著者が言う通りだと思います。それを子供の判断に任せるのは私は逆に無責任だと思います。なぜなら、子供はそれが大切かどうか判断することができず、単なる好き嫌いで判断してしまうからです。自主性とは子供自らが善悪を判断して、善を行うことであって、好き嫌いのことではないと私は思います。

楽しく出来ればそれに越したことはない

ただ嫌なものを強制されるのは辛いことでもありますので、なるべく楽しく出来ればそれに越したことはないと思います。そのためには工夫も必要だと思います。でも、著者が言うように、それでも乗り越えなければいけない壁はやっぱりあるだろうと思います。

それは好き嫌いではありません

中でも子供が自分のわがままを中心にするのではなく、神様の思いや願いを中心にして生きることができるように教育することは、子供の好き嫌いに任せてはならないことだと思います。子供を愛する親は子供の幸せを考え、子供に神様を中心にして生きることができるように教育するべきだと思います。困難はあるかもしれません。でも、負けてはいけないと思います。それはピアノが出来るかどうか以上の大きな祝福をもたらすことになると思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の生き方のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書をお読みください。

新約聖書 マタイの福音書 3章13~17節

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。

「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」

そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

ヨハネから水のバプテスマを受けたイエス

ヨハネはイエスがメシヤだと分かったのだと思います。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはず」と言っているのは、そういうことではないかと思います。しかし、イエスはこれは「正しいこと」だと言いました。どういうことでしょうか。

聖書解釈はどうであれ

水のバプテスマを受けることは正しいことだとか、これが聖書預言の実現であるからとか、いろいろと解釈はあるのかもしれませんが、はっきり書かれていない以上私には分かりせん。ただ、正しいことを実行するのは、私たちにふさわしいというイエスの言葉はその通りだと思います。

正しいことを行いましょう

ヨハネは大変恐縮したのではないかと想像します。しかし、確かにそれは正しいことだと納得したのではないでしょうか。それが神様を中心にすることだと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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