【日本とイスラエル】蘇民将来とイスラエル

蘇民将来のお札

日本の蘇民将来の説話とイスラエルの風習との関連について、久保有政氏のYouTube動画解説「日本のルーツとユダヤ2」からご紹介いたします。

蘇民将来

祇園祭を行なっている八坂神社では、「蘇民将来」のお札が売られている。・・・中国っぽい名前に聞えるが、日本の説話中の人物の名前である。その説話とはこういうものだ。ある日、蘇民将来の家を旅人が訪れ、宿を求める。蘇民は貧しかったが、快くその旅人を泊めてあげる。じつはその旅人とは神様であり、その神様は、のちに疫病が起きたとき、蘇民将来の一家を守る約束をする。そして一家は守られる。だから以後、「蘇民将来の子孫」であることが、幸福のしるしとなった。

アブラハムの話

不思議な話だが、どうもこの話は聖書のアブラハムの話に似ている。ある日アブラハムのもとに、(3人の)天使がやって来る。アブラハムは彼らをもてなす。天使たちは、悪徳の町ソドムとゴモラに神の審判が下ることを告げる。しかし天使たちをもてなしたアブラハムとその一家には、災いが下らない。この「アブラハムの子孫」であることは、幸福のしるしである。

将来蘇る民

ユダヤ人が「アブラハムの子孫」である一方、日本人は「蘇民将来の子孫」であるというわけだ。そして「蘇民将来」の名は、「将来、蘇(よみがえ)る民」と読めて、なにやら意味ありげである。イスラエル民族は、「将来、終わりの日に、蘇る民」と呼ばれている。日本人もそうだという信仰が、ひそかに語られているようにも思えるのである。(久保有政氏の解説からの引用は次回に続きます。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は、古代イスラエル系渡来人によってもたらされた日本の文化、伝統、習慣、信仰、国民性のルーツです。キリスト教の経典としてではなく、日本の原点を知るために聖書を読んでみてください。

旧約聖書 創世記 44章18~34節

この時ユダは彼に近づいて言った、「ああ、わが主よ、どうぞわが主の耳にひとこと言わせてください。しもべをおこらないでください。あなたはパロのようなかたです。わが主はしもべらに尋ねて、『父があるか、また弟があるか』と言われたので、われわれはわが主に言いました、『われわれには老齢の父があり、また年寄り子の弟があります。その兄は死んで、同じ母の子で残っているのは、ただこれだけですから父はこれを愛しています』。

その時あなたはしもべらに言われました、『その者をわたしの所へ連れてきなさい。わたしはこの目で彼を見よう』。われわれはわが主に言いました。『その子供は父を離れることができません。もし父を離れたら父は死ぬでしょう』。

しかし、あなたはしもべらに言われました、『末の弟が一緒に下ってこなければ、おまえたちは再びわたしの顔を見ることはできない』。それであなたのしもべである父のもとに上って、わが主の言葉を彼に告げました。

ところで、父が『おまえたちは再び行って、われわれのために少しの食糧を買ってくるように』と言ったので、われわれは言いました、『われわれは下って行けません。もし末の弟が一緒であれば行きましょう。末の弟が一緒でなければ、あの人の顔を見ることができません』。

あなたのしもべである父は言いました、『おまえたちの知っているとおり、妻はわたしにふたりの子を産んだ。ひとりは外へ出たが、きっと裂き殺されたのだと思う。わたしは今になっても彼を見ない。もしおまえたちがこの子をもわたしから取って行って、彼が災に会えば、おまえたちは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう』。

わたしがあなたのしもべである父のもとに帰って行くとき、もしこの子供が一緒にいなかったら、どうなるでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供がわれわれと一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。

そうすればしもべらは、あなたのしもべであるしらがの父を悲しんで陰府にくだらせることになるでしょう。しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。

どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。

しもべをこの子供の代りに

ユダは父の悲しむ姿を想像した時、ベニヤミンを連れて帰らないという選択肢はあり得ないと考えました。ユダにできることは、自分がベニヤミンの身代わりとなることだったのでしょう。このような思いは神の前に喜ばれる心ではないでしょうか。決して人間中心、自己中心からは出て来ません。人間中心、自己中心を退け、神に立ち返り、神に喜ばれる生き方を求める。ユダはそのように考えた訳ではなかったかもしれません。ただ、父への憐みだったのでしょう。それが忍びない、耐えられないと感じたのでしょう。それは正に神が人に与えた心です。神に立ち返って生きるとは、決して何か宗教的な生活をするということではありません。このように神が本来人に与えた心に素直に立ち帰って生きることに他なりません。ユダにとってそれは究極の選択だったでしょう。その時、人は何によって物事を判断しているのかが露わにされます。

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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