「日本人は共生という〝種〟を蒔いている」とルース・ジャーマン・白石さんは書いています。「日本人が世界に誇れる33のこと」という本から紹介します。
お待たせいたしました
成田空港のセキュリティーチェックでのことです。順番が来て警備員が「お待たせいたしました」という心遣いの言葉をかけてくれました。こんなことは、他国ではまず考えられません。だいたいどこの空港もセキュリティーチェックはとても細かく、担当者もうんざりしています。だから多くの場合には、「自分たちも迷惑しているんだ!」という態度になり、ぞんざいな対応になるのです。
「自分」と「みんな」
日本人には、たとえ自分が迷惑に感じていても、相手に不便をかけているようなら、一言お詫びをする習慣がついています。これはおそらく、日本人は常に「他人に迷惑をかけない」ことを重視して行動するからでしょう。一方、外国人は、もちろん他人を思いやらないわけではないのですが、一人ひとりの「自分」が行動の軸となっており、常に自分ベースの発想で行動する傾向があるのです。
個人と全体
アメリカでは、ATMでどんなに時間がかかっても、後ろの人たちを気にしないでやりたいことを平気で最後まで済ませます。後ろで並んでいる人については、「待ちたければ待つ」「待ちたくなければ待たない」というアプローチです。もし、操作中の人が時間をかけすぎて、待っている人たちがどこかのアポに遅れたりしても「待つ選択をした本人が悪い」という考えになるのです。
「みんなで」と「自分で」
日本人にとっては、「気配りがない」と感じることでしょう。しかし、「みんなで」という考え方より、「自分で」という考え方が主の国だと、そういう行動が常識となるのです。「みんなで(共生)」をベースに生活していると、相手を絶えず視野に入れて意識することが自然にできます。
私にとってはアメリカ人の方が驚き
一方、「自分で」をベースに生活していると「すべてのことは自分次第」ということになり、プレッシャーがかかってきます。その結果、日常の行動で他人への配慮をすることが非効率に感じるようになるのです。実際に、アメリカでATMの操作の途中で次の方に譲っても、感謝されることはありません。次に待っている人はほんとうに不可解な気持ちになって、素朴に〝Why?〟と尋ねてくるでしょう。
模範となる日本人
日本人の「共生の心」を知ると、不思議なことに、どの国の人々も、自分たちの生活習慣のなかに取り入れ始めます。こうした美しい習慣が、世界でもまずお目にかかれない〝地球の共生〟の教科書であるということを、日本人が意外と意識していないことが、残念な気がします。(本からの引用は以上です。)
全体の一部としての自分
日本人にも個人の権利と責任という意識がない訳ではないと思いますが、個人は決して孤立しているものではなく、全体の一部だと考えていると思います。これは日本人の意識と世界の意識の本質的な違いなのかもしれません。みんなが幸せでなければ、個人の幸せもないと日本人なら当然のように思うでしょう。みんなが幸せだったら、私も幸せを感じると思います。
聖書は本来日本的
西欧のキリスト教はとても個人主義的な面が強いと感じますが、本来のイエスの教え、聖書の信仰は決して個人主義ではないと思います。神様を中心にして生きる日本人の心にこそイエスの教え、聖書の信仰が引き継がれていると私は思います。そのことについてはまた別の機会に書きたいと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、みんなで(共生)という日本人の信仰のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 7章31~37節
それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。すると人々は、耳が聞こえず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。
彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
神様の力
今日の箇所にもイエスを通して神様の超自然的な力が働いたという出来事が記されています。イエスは大袈裟な身振り手振りで自分の力を誇示するような態度ではなく、両耳に指を入れ、つばきで舌を潤し、天を仰いで「エパタ」と言われたと書いてあります。その力はイエス自身ではなく、神様から来るということを全ての人に示したのではないでしょうか。
神様を中心にする
また、イエスはこのことを誰にも言わないようにと言われました。大切なことは神様に思いを向けることだということではないでしょうか。そして、これは単に人を驚かせる不思議な奇跡ということではなく、人々を苦しみから解放するための働きであったことも思います。神様を中心にして生きることが大切なのだと思います。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」